言葉一つ天に轟き

 炎に焼かれ燃え続ける森を、ベルドーは骨を軋ませながら急いでいた。肉も皮も削げ落ちた髑髏に表情は生まれないが、時折もつれそうになる足が、腕を振り回し少しでも前に進もうとする動きが、彼の焦りを伝えていた。 (まさかダーコーヴァが敗れるとは……おのれコルネリウス、ベルベットめ)  勝利と引き替えにコルネリウスは虫の息だったが、駆けつけたベルベットから逃れるには変身の書を置き去りにするしかなかった。忌々しさに歯軋りをしながら足を進める。熱に晒される苦痛が、怨みを強くする。 (まだだ、まだ手はある。この国のどこかにあるはずのあれを、あれを手に入れられれば、まだ)  木々の燃える音。大気の焦げる音。耳を無くした虚ろな空洞が、その中から聞き覚えのある声を拾い上げた。  天の采配とも言うべき僥倖に、ベルドーは骨を軋ませ歓喜する。 「メルセデス女王」  一拍の驚愕の後、嫌悪を露わに石弓を構えた妖精の姿は、最後に見たときと何ら変わらぬ、取るに足らないちっぽけな小娘と思えた。 「何者だ!?」 「思い出されぬのも無理はない。少しみすぼらしくはなりましたが、魔法使いベルドーにございます」 「ベルドー? お前が?」  戸惑う女王を上辺だけの慇懃な態度で嘲弄しながら、辺りを伺う。女王の癖に供もつけていない。いや、もういないのか。  コルドロンにフォゾンを奪われ、弱体化したところをダーコーヴァに強襲され、混乱の内に炎の軍勢に攻め込まれた。名高きリングフォールドも終わりだが、この状況で女王に会えたのは如何なる幸運か。  密かに胸を撫で下ろしながら、ベルドーは女王の声に耳を澄ませた。 「この惨劇は、お前の仕業か!!」  怒りに震える声を、声高にぶつけてくる。小娘の癇癪としか映らぬそれを心地好く浴びながら、ベルドーは応えた。 「いえいえ、私ではありませんよ。蛙のイングヴェイを覚えておいでかな?」 「イングヴェイ?」  怒りに吊り上がっていた目が、困惑に見開かれる。狙い通りの反応に、ベルドーは心中で喝采を上げた。 「捨て身で獣に変じたはいいものの、コルドロンを壊すどころか暴走してこの有様。まさか女王のいらっしゃるリングフォールドをこうも蹂躙しようとは」 「そんな……」  見る影もなく焼き尽くされた森。それを成したのがかつての友と知り、打ちのめされる女王。  惨めなその様に、ベルドーは甘やかに声を蕩けさせた。 「如何ですかな、陛下。私ならイングヴェイを止められますよ」 「──…え?」  女王の目が、偽りの希望を映してきらめく。物欲しげな視線に、ベルドーは骨だけになった体を喜悦に軋ませた。 「獣を操る術、というものがございます。それを使えば暴れるイングヴェイを宥めるなど容易いこと。  六つ目の獣ならば炎の軍勢なぞ恐るに足りませぬ。如何ですかな?」 「お、お前の言うことなんて、誰が」 「おお、誤解召されるな、陛下。確かに私は陛下を裏切りました。それは十重二十重にもお詫びしましょう。  ですが、それは我欲のためではなく、ただ叙事詩の予言を遂行せんがためなのです」 「──叙事詩?」  勝利の確信と共に肯く。 「そう、今は亡きガロン王がまとめられた終焉の予言。すべては叙事詩で語られた通り。  爛々たる六つ目の獣、人の手では抗えぬ炎の奔流。ならばそこには救いもあるのです。  六つ目の獣は救いの御手の導き手となり、炎は世界樹に阻まれて消える──それは貴方のことなのですよ、メルセデス女王」  高らかに謳い上げ、女王の目を見据える。  無論、空言だった。イングヴェイでも、ベルベットでも、メルセデスでもない。この私、ベルドーこそ、王となる。六つ目の獣を導く救いの御手となり、ガロン王と共に冠なき王として新たな世界に君臨する、そのために。 「さあ陛下、ティトレルの指輪はどこにあるのです?」  瞠目した女王の肩が、ピクリと震えた。俯き、迷い、焼け焦げた地面を見つめる。 「おお、ご不興を買うつもりはございませぬ。  ですが、国がこうも荒れた今となっては、炎の軍勢を退けただけでは国の復興は成し得ませぬ。コルドロンでフォゾンを注げば、リングフォールドの再建も夢では」 「……ベルドー」  女王の唇が、わずかに開かれた。  燃え広がる炎の中、指輪の在処がその口からこぼれるのを確信し、ベルドーは女王の唇に注視した。 「私は、お前がベリアルにしたことを忘れてはいない」  瞬間、世界からすべての音が消え失せた。  何が起こったわけでもない。何が変わったわけでもない。惨めに俯いていた女王が、顔を上げた。ただそれだけで。 「答えよ、ベルドー」  木々が爆ぜ大気が焦げる音の中にあって、尚も通る戦慄の声。凍りついた雷に身を撃たれた感慨。後ずさることさえ許さぬ眼光が、小賢しい魔法使いを射抜く。 「獣を使役する術がまことなら、何故お前は獣を使い、私から指輪を奪い取ろうとしない」  はったりを見抜かれたことを悟り、ベルドーは声を失った。弁明は可能だった。いくらでも。だが、女王の目が、声が、突きつけられた石弓が、ベルドーに虚言を吐くことを許さない。  燃える木々、大気の悲鳴、世界の滅ぶ音を貫いて、ただ一つの声がベルドーに突き刺さる。 「やはり、我が国に災厄をもたらしたのはお前か」  言葉一つ。 「ま……」  制止が形になる前に、放たれた魔弾が、命乞いよりも速くベルドーを射抜いた。呪いで保たれていた骨が衝撃に耐えきれず壊れ、急速に瓦解していく。  端から砕けて塵になっていく刹那、かつて忠誠を誓ったガロン、エドマンド、エルファリア、オーダインさえもが思い浮かび、そのすべてが眼前の小さな女王に押し潰された。 (メル、セデス、女王……)  塵になり焦土に消えた魔術師には目もくれず、メルセデスは羽を広げ焼き尽くされていく森を駆けた。  いつも見守っていてくれた爺は、民の避難を任せた後、姿が見当たらない。傍を守る兵士がいなくなって随分経つ。ユニコーンの鬨の声も聞こえない。出稼ぎに来ていたプーカ。口の悪い蛙。別れたときの、優しい言葉。 (何、また会えるさ)  ベルドーの言葉はどこまで真実だったのか。わかるはずもなく、呟く。 (イングヴェイ) 「誰か」  泣きじゃくる少女の顔で、叫ぶ。 「私の国には、もう誰もいないの!?」  応える声はなく。  それが、何よりも雄弁な答えだった。