彼女のことが好きだったと、今になって気づいたのは滑稽を通り越して罪悪だと、イングヴェイは自覚していた。
焦げた大気。見る影もなく焼け爛れた妖精の国。燃え盛る森。彼女の国。彼女が愛し、守ろうとした国。
そして、この国を焼き尽くし、彼女を殺したのは、自分なのだ。
熱と煤に焼かれ、喉はしゃがれていた。呼吸の音が甲高く、声などもう出ないだろう。出なくて構わない。イングヴェイは空っぽの両手を見つめた。彼女がいない。ならば、声などもう何の意味もない。
虚無に包まれた頭の中で、イングヴェイはいつまでも彼女のことを考えていた。他にすべきことなど最早なかった。
今までずっと、彼女のことを考える暇なんてなかった。考えないようにしていた。やるべきことがある。そう言い訳していた。
本当は、彼女のことを考えられるほど、強くなかっただけだ。
騙しやすそう。それが彼女への第一印象だった。事実、少し驚かせば彼女は容易く王家の石弓を落とし、彼の策略とも気づかず蛙を頼ってきた。後はない恩を売るだけだ。
そう思っていたらリングフォールドの反乱に巻き込まれ、甘ったれたことを抜かしている彼女に苛立って口を出せば、いやに素直に奮起された。
初めてだったかもしれない。自分の言葉を、あんなに真摯に受け止められたのは。
皮肉と虚偽と騙し合い。そんな言葉しか交わしてこなかった。初めてだったのだ。何の嘘もなく、後ろめたさもなく、騙す必要も騙される不安さえなく、他者と言葉を交わせたのは。
彼女は俺の言葉を忘れなかった。それが嬉しかった。自分の言葉を胸に竜の元に向かった彼女が心配で跡を追い、蛙の身に雪山は寒すぎて逆に助けられた。情けなさと恥ずかしさでつい「助けてなんて言ってないだろ」と口にすれば拗ねられて、助言を口にすればあっさりと彼女は機嫌を直した。
楽しかった。彼女といるのは、本当に、楽しかったのだ。
三賢人と無謀な取り引きをしに行こうとする彼女を止めなかったのは好都合だったからだ。目立つ妖精の女王を陽動にして、伏兵として三賢人を仕留め、ダーコーヴァの秘術を手に入れる。
今思えばお笑い種な策だ。無意識だったのが尚のこと可笑しい。結局のところ、あのとき俺は、彼女を助けるつもりでついて行ったのだ。
彼女には、王族として接していた。助言はする。忠告もする。だが相手が聞かなければそれまでだ。三賢人との取り引きだって、もしやろうとしていたのがベルベットだったなら止めただろう。
だけど彼女は女王だ。自分でやることは自分で決めなきゃならない。だが手助けはするし、見捨てもしない。そんなつもりなんてなかったのに、いつの間にか、俺は彼女の導き手になっていた。
お笑い種だ。本当は、王族としての責務を何一つとして成さなかった俺が、彼女に言えた言葉など、何一つない。
国を滅ぼし、それを隠し続けた。己のせいで呪われた民を目にするのに耐えきれず、守るべき自国の民から逃げ続けた。そんな情けない王子の言葉を、彼女は、真摯に受け止めてくれた。
俺の思い描く理想の王としての在り方を、彼女はすべて体現した。そして、その上を行った。
復讐ではなく正道を。魔王軍を打ち破り、母の仇を目前にして、彼女は血で血を贖うことを選ばず、戦の永き終焉を願った。殺すことばかり考えていた俺は、彼女の足元にも及ばない。
民を想い、国を想い、かといって覇権に血迷い他国をいたずらに虐げることもなく、彼女は気高く在り続けた。祖父王も、オーダインも、エドマンドも、オデットも比較にならない。彼女は、この世で最も偉大な王だった。
そんな、この世で最も偉大な王が死んだ。
俺が、殺した。
彼女は、俺のために死んだのだ。
* * *
待ち望んだ雷は、いつまで経っても落ちてこなかった。天の裁きなどあるわけがない。そんなものがあるのなら、こんな汚れた魂はとっくの昔に裁かれていたはずだ。
いっそ携えた短剣で、自らこの汚れた生に終止符を打とうか。幾度となくそんな考えが頭を掠め、そのたびに、彼女の笑顔がそれを躊躇わせた。彼女の死んだ場所を俺の血で汚したくない。馬鹿げた考えだったが、どうしても捨てきれなかった。
死にたいと思ったことは何度もある。それをしなかったのは、やるべきことがあったから、まだ死ぬべきではないと思っていたから。
すべては間違いだった。やるべきことは、死ぬことだった。俺さえ死んでいれば、こんなことにはならなかった。彼女も、死なずに済んだのだ。
メルセデス。堪えきれずに呼ぼうとした名前を、涸れた喉は音にしてくれなかった。
どうして俺を殺してくれなかった。己の罪深さに反吐が出る。この期に及んで出てくるのが彼女への怨み言とは、どこまで罪深いのだ、俺の心は。
殺せたはずだった。魔王を打ち負かした彼女になら、魔王のバロールさえも打ち砕いたあの石弓になら、俺を殺すことができたはずだった。
なのに。彼女は俺を殺そうとしなかった。石弓を振るい、魔弾を放ち、俺を正気に戻そうとした。
術が解け、人の身に戻ったときには、彼女は血塗れで地に伏していた。俺を殺すことなんて、容易かったはずなのに。
彼女に殺されるなら、どれだけ幸福な最期だったろう。この罪深い命には勿体ないほどの栄誉だったろうに、どうして。こんな罪深い命を生かそうとしたんだ、女王。
「そこのお前たち、グヴェンドリンの亡骸に触れるな!」
涙の混じる激昂が、イングヴェイの耳に届いた。
顔を向ければ、炎に焼ける木々の煙の先に、女をかき抱く男が見える。赤い肌。周囲に付き従う炎の化身たち。なるほど、あれがボルケネルンの王、オニキスか。
会ったことはなかったが、あの様子では他の、彼女を除く王と大差はないらしい。従者たちの進言を無視し、癇癪を起こした子どものようにわめいている。
従者たちは顔を見合わせ困惑している。だがそれは、女をかき抱く王にはどうでもよいことのようだった。他の何も目に入らずに、ただ一心に女を抱く腕に力を籠めている。
腕の中の女は、既に息絶えているようだった。青と白の鳥を思わせる装束。ラグナネイブルのワルキューレか。
白い肌は焼けて煤に塗れ、女が炎によって死んだのだと気づかせた。十中八九、殺したのは女を抱きしめているオニキスだろう。
オニキスは、泣いているようだった。炎の化身が涙を流せるはずもない。だがその丸めた背が、女を抱きしめる腕の強さが、王の嘆きを全霊で表していた。
まるで道化だ。イングヴェイは鼻で笑おうとした。自分の手で愛する者を殺しておきながら、それを嘆き、腑抜けて死を望んでいる。笑おうとして、笑えないことに気づいた。俺も同じか。
焼けた樹の向こうに、炎の従者、バルカンたちが集まってきた。どうやら、王を説得するつもりらしい。
だが、取り返しがつかなくなってから愛に目覚めたオニキスは、敵意すら籠もった声で従者たちを追い払った。
「行くならお前たちだけで行け」
「消えろ!」
「俺を一人にしろ!」
「誰も……彼女に近づくな」
己の恋に臣下を道連れにする腑抜けた王。まるで道化だ。まるで自分だ。イングヴェイは虚ろに笑った。
もうすぐ、この国は海に呑まれる。この炎もかき消される。この罪も、彼女の愛した国も。炙られた大気の煤が目に入り、愚かしくも涙がこぼれた。どうしようもなく、滑稽だ。
顔を上げた先、炎の王は冷えた溶岩の固まりへと姿を変えていた。どうやら海が流れ来るのを待たず、自ら恋の業火で焼け死んだらしい。無様な死に様だ。
嘲ろうと自嘲の笑みを作った先、秘術で強められた感覚の名残が、王の残骸に奇妙なものを見つけた。
「……?」
思わず立ち上がり、彼女の死んだ場所から離れるのに怯え、しかし意を決して歩み出した。
炎の中でずっと座り続けていたため節々が痛んだが、それだけだ。バルカンたちは王と共に死に失せたのだろう。邪魔する者はなかった。
惨めに泥に姿を変えた王の死体から、白い手がはみ出ている。オニキスに抱きしめられていたあの女。
王のはた迷惑な愛から逃れようとしたかのような、哀れな白い指に、金の指輪が嵌められていた。
ティトレルの指輪。
「……なぜ、こんなところに」
イングヴェイは茫然と呟いた。かすれた声は、抱いていた幻想よりもしっかりと宙に響いた。
ティトレルの指輪はベルベットが隠し、いかなる策略によってかオーダインが手に入れ、そして彼女が、それを奪い返したのではないか? 何故、妖精の宝物庫にでも守られているはずの指輪を、オーダインの魔女が持っている。
イングヴェイは震える手で女の指に手を伸ばし、指輪を抜き取った。小さな金の指輪は、あっさりと手に収まった。
間違いなく、ティトレルの指輪だ。かつて、自分も手にした指輪。何故こんなところに。いや、そんなことはどうでもいい。
イングヴェイはきびすを返し、彼女の死んだ場所へと戻った。動いて改めて、自分の傷が深くないことを思い知る。
手の中には小さな指輪。胸の内には彼女の笑顔。イングヴェイは己の望みを口にした。
ここで死ぬ。ここで、彼女の死んだ、この場所で。
そんな幸福な最期が、俺に許されるとでも?
歯を食いしばり、足を踏み出した。体の傷は驚くほど少ない。声も出る。魔法も使える。ベルドーは消えた。あの忌まわしい祖父はダーコーヴァを操る術を知らない。ガロン王もそれは同じ。
まだ戦える。イングヴェイは歩き出した。彼女の死んだ場所に背を向ける。行きたくない、ここで死にたいと叫ぶ心から、必死に目を逸らして。けれど目蓋には、彼女が最期に浮かべた笑顔。
俺のことを、芯から信じていた彼女の、無垢な微笑み。
(──…メルセデス)
世界を救いに行くのではない。罪を贖いに行くのでも、復讐を果たしに行くのでもない。
どうせ死ぬのなら、最期に、君の心に相応しい俺で在りたい。
イングヴェイは覚悟を決め、終焉に向かって走り出した。