終焉前夜

VELVET

 夜は深く、絶望もまた色濃かった。ベルベットは夜空を見上げ、そこにある星に希望を見出そうとした。  新女王の率いる妖精軍に、魔王軍が敗北した。プーカの仕入れてきた噂は、にわかには信じがたいものだった。かつて相見えた王女メルセデスは確かに強大な力を誇っていたが、それはサイファーの石弓と疲れることのない妖精の性質によるもので、彼女自身には王者の風格など微塵も感じられなかった。 (彼女に、オーダインが負けた?)  噂が事実だと裏付けを取るのにしばらく。やがて知った女王が魔王に誓わせた停戦条約は、彼女への評価を改めるのに十分なものだった。  彼女は、変わったのだろうか。どこにでもいるありふれた子どもにしか見えなかった彼女は、母親の死と王位の継承を経て、誇り高き女王へと成長したのだろうか。  憐れに思うのは、傲慢に過ぎるだろう。敬意を抱くべきだ。だが、敗北の念がぬぐえなかった。魔王オーダインが女王メルセデスに負けた。あの強く、傲慢で、嫌悪しながらも決して超えられない壁の一つだった父が、あの少女に負けた。  何故あのとき私は、父を助けたのだろう。死の軍勢とダーコーヴァの秘術を使い、オーダインを殺そうとしたイングヴェイ。獣に変じた兄を、父と共に止めた。私が止めなければ、あるいは兄は父を殺せていたかもしれない。どうして。母を捨てて逃げた父。ずっと、怨んでいたはずだったのに。  妹の顔が思い出された。グウェンドリン。あの子は父を慕っていた。だからだろうか。妹のために。あるいは、兄のため? 親殺しの罪を背負わせたくなかった。  理由など、ないのかもしれない。近づく足音。見張りから戻ってきた恋しい人に、ベルベットは目を細めた。  恩師の遺した叙事詩の解釈。指輪は竜の腹に封じられ、終焉は回避できたと思った。だが、魔王と妖精軍の決戦で、ティトレルの指輪はオーダインから妖精の手に渡った。  どうやってオーダインがワーグナーからティトレルの指輪を奪ったかは、最早問題ではない。終焉が逃れ得ぬものなら。祖父は必ずコルドロンを使う。  妖精たちの手から再び指輪を盗み出し、祖父よりも先にコルドロンへ辿り着く。時間はもう残されていない。  終焉に立ち向かう。祖父に抗う。けれど。  果たして、間に合うのか。  恋人の腕の中、夜空を見上げた。夜は深く、星は見えなかった。
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CORNELIUS

 腕の中の恋人は、か細く震えていた。抱きしめる腕に力を籠めるが、小さな獣の腕では、彼女の震えを止めるにはあまりに力が足りなかった。  それでも、腕の中に彼女がいる幸福を噛みしめ、コルネリウスは強く恋人を抱き寄せる。  いなくなった彼女の兄の捜索。姿の見えないバレンタイン王。再び妖精の手に戻ったコルドロン。着実に迫りつつある終焉。穏やかに過ごすことのできない日々だったが、それでも互いが隣にいるということは、コルネリウスとベルベットにとってこの上ない力となっていた。  もし、あのとき、ベルベットが彼を引き留めてくれなかったら。あの日の決意のままに、彼女と別れていたら。  それでもコルネリウスはベルベットを、イングヴェイを助けるために駆けつけただろうし、終焉を止めるために奮闘しただろう。  だが、これほど心強くあることはできなかったに違いない。  夜、ベルベットがうなされることがあるのを知っている。それが何故なのかも。それでも足を止めず祖父に立ち向かおうとするベルベットを、コルネリウスは尊敬していた。  彼女の師が書き残した、叙事詩の解釈。冥府のガロン王。かつてまみえたときはとても終焉を導くような人柄には思えなかったが、自分がまだ知らないことがあるのか。父が倒した祖父。自分が立ち向かうことになるのは彼なのか。それとも。  六つ眼の獣。姿を消したイングヴェイ。  自分が立ち向かうことになるのはガロンであってほしい。そう思うのは孫として薄情だろうか。六つ眼のダーコーヴァにはガロンも当てはまる。  イングヴェイが終焉を起こすはずがない。だが、それでも。導かれるのが運命ならば。  コルネリウスは、恋人を抱く腕に力を込めた。彼女を嘆かせるような真似だけは、したくなかった。
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GWENDOLYN

「これが……叙事詩」  手渡された一枚の巻物を、しげしげとグウェンドリンは眺めた。さほど長くはない。短く、洗練された文章だった。 「最近仕入れたものなんですがね。姫様の気晴らしになればいいかと思って」  笑いながら言った馴染みのプーカに短く礼を言う。あまり明るい話題とは言えなかったが、叙事詩の文章は短くも難解で、幾通りにも解釈できそうな内容だった。頭を悩ますにはちょうどいいだろう。  それに、死の女王オデットの最期の言葉も気にかかっている。自分が考えるべき事柄と思えた。 「でも、よかったの? 写しとはいえ、貴重なものでは……」 「ああ、いいえ。結構広く売りに出してるんですよ。手に入れた人は確かに苦労されたそうですが、多くの人がこれを目にすることを望んでいて……」  プーカは遠くに目を遣った。その人のことを思い返しているのだろうか。  何にせよ、それは一瞬のことだった。 「何でも、読むべき者の手に渡るように、とのことでした」  そう言って浮かべた笑顔は、誇らしげですらあった。  グウェンドリンは頷きを返し、改めて羊皮紙を眺めた。自分は、これを読むべき人間だろうか。  わからないまま、文字をなぞる。死の凱旋。冥府の王。オデットの最期の言葉。いずれ終焉が訪れるとすれば、それは。 (私の、せいなのだろうか……)  遠い空を見上げる。異変を察し旅立った夫も、この巻物を読んでいるだろうか。そんなことを思った。
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OSWALD

「グウェンドリン……」  篝火を興しながら夜空を見上げ、オズワルドは愛しい伴侶の名を唱えた。  呼び声は誰に届くこともなく、大気に溶けていく。だが、唱えるだけで、身の内に小さな灯りがともる気がした。  心配させてしまった。見送る妻の憂い顔を思い出し、申し訳なくも、情けなくも、少しだけ嬉しい気持ちになる。最近になって始まった大地の鳴動。オデットの遺言を思い出し顔を曇らせる妻を見て、イルリットの森から頼れそうな知人を目指し旅立ったものの、果たして当てになるかどうか。  炎の王オニキス。あの男が自分の頼みを聞いてくれるとは思えなかったが、他に終焉に詳しい知人もいない。オーダインを頼ることも考えたが、結果的にティトレルの指輪を奪った自分たちが再び現れれば、さすがに王として見逃してはおけないだろう。一度は父親としての立場を選んでくれたが、そう何度も甘えるわけにはいかない。自分は彼女を託されたのだから。  怒っているだろうか。見送る妻の顔を思い出し、今度は不安が先立った。いっしょに行くと聞かなかった妻を、城で待つように説き伏せたのは、自分のわがままに他ならない。いや、ブロムやミリスが手伝ってくれなければ、とても彼女を説得することなどできなかったろう。 何か土産を買って帰ろうか。素直にそんなことを思い、自分で驚く。そう悪くはない気分だった。  わがままだとわかっている。オニキスに話を聞くならば、グウェンドリンの方が適任だ。だが、どうしてもできなかったのだ。恋敵の目に彼女を触れさせることなど。  想いを通わせてから、日に日に彼女は美しくなっていった。帰る頃には、どれだけ美しくなっているだろう。どうか笑顔で迎えてほしい。欲張りになったものだと自分で呆れた。  イルリットの森から炎の国ボルケネルンに行くには、タイタニアを通らねばならない。帰りにはタイタニアで土産を買って帰ろう。ミリスと、ブロムと、それから彼女に。  愛しい人の名をもう一度つぶやいて、オズワルドは目蓋を伏せて浅い眠りについた。
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YNGWIE

 暗い空。朝も昼もない、呪われた地。  イングヴェイは身を隠すように俯きながら、足を進めていた。  コソコソと逃げ回る泥棒のようだ。自覚して苦笑する。ここまで来るのに随分時間がかかってしまった。プーカの魔法陣を借りればすぐだったろうが、そういうわけにもいかない。  弱った体で妖精たちから幻術で身を隠しながら進むのは骨が折れたが……時間がかかった本当の理由は、そういうものじゃない。  歯を食いしばり、イングヴェイは息を止めた。口の中にあふれた唾液を飲み下すが、何の慰めにもならない。視界を遮る砂の中に、生き物がいないか目を凝らすのは警戒心から来るものじゃない。  ラグナネイブルからコルネリウスたちに助け出され、一足先に目を覚まし、ベルベットの寝顔を見た瞬間、あふれたのは食欲だった。殺意や肉欲の方がまだマシだ。衝動的に逃げ出し、一人で傷ついた体を癒したものの、沸き立つ食欲が止むことはなかった。  ダーコーヴァの呪いは続いている。人の姿を見れば見境なく喰らいたがる体では、ろくな情報も集められなかった。  わかったことは一つ。コルドロンが再び動き出した。そしてあの忌々しい祖父は、既にコルドロンの元にいる。 「俺はもう終わりだ。だが、無為に朽ちるものか」  オーダインへの復讐は、もう叶うことはないだろう。それで構わない。母の愛した男を自分が殺せば、母はきっと悲しむだろう。だからいい。同じように母を奪われた彼女が正道を貫いたのだ。自分がそれを汚してはならない。  絶え間ない飢餓に苛まれる思考が、一瞬何かの面影を求めた。それを振り払い、イングヴェイは足を進めた。
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MERCEDES

 誰もいない玉座の間で、女王メルセデスは怯えていた。誰も知ることはない。誰にも見られることはなく、彼女は肩を震わせ、恐怖に凍えている。  口を開こうとした。勇気が足りず、言葉は喉に引っかかったまま放たれることはなかった。彼女の手には一枚の羊皮紙。何のことはない、ただの紙切れ。そのはずだった。 「どうして……」  吐息と共にこぼれたのは、吐き出したい言葉ではなかった。混乱から出た一言。どうして。何の意味もない独り言。  単なる教養のつもりだった。ただ、人間たちの間で広まっているという終焉の予言を、自分も読んでみようと思っただけだ。馴染みのプーカに尋ねれば、最近仕入れたという叙事詩の写しを売ってくれた。それを読んでみた。それだけだったのに。 「世界樹?」  言葉がこぼれた。叙事詩に書かれていた言葉。炎は世界樹に阻まれて消える。それは。 「私のこと?」  いずれ天に還す名。母にも、誰にも言ったことはない、己の真の名。天より与えられた役割。それが何故、叙事詩に書かれているのか。  叙事詩は終焉を記したもの。叙事詩に自分の名が刻まれているのなら。終焉が訪れるのは。 「今?」  畏れが身を震わせた。眠れぬ夜。朝焼けが夜を焦がす。フォゾンの悲鳴が轟く。  顔を上げた女王の目に、滅び行く世界が映った。