オイディプス王の悲哀
あれは世にも稀なる娘。
天の作り給う至高の女。
余の光。
余の宝。
余の命。
余のすべて。
だというに。
何故、あれは余を裏切った?
* * *
かつては威厳にあふれていた堂々とした体躯も、今は背骨が曲がり惨めに俯き、かつては慈しみ深い穏やかな笑みに彩られていた顔も、今は禍々しい狂気に醜く歪んでいた。
魔法大国バレンタインの王。賢帝の名を欲しいままにした過去は遠い。今の王の形容は狂王。自国他国の区別無く、エリオン大陸を血に染める尾を喰らう蛇。
男は玉座に座り、じっと目の前の女を見ていた。
女と呼ぶのは相応しくないだろう。十に届くか届かないかの、まだ子どもと形容される年頃の娘だ。だがその幼い顔立ち、無垢な肢体も、王には女のそれにしか映らなかった。
母親によく似た姿。瓜二つといっても過言ではない。成長すればますます似てくるだろう。母親そっくりに。あの美しい女そっくりに。バレンタイン王は頬を歪め、どろりとした笑みを浮かべた。
「ベルベット」
身を震わせ、娘は動きを止めた。美しい舞いが、娘の小さな手で操られ美しい軌跡を描いていた鎖が、涼やかな音を立てて地面に落ちる。
顔を上げた娘の表情は怯えていた。娘の母は終ぞ浮かべなかった表情。
バレンタイン王は奇妙な感情に眉をひそめた。愛おしいような、苛立たしいような高揚感と不快感。
「舞え」
自分で呼び止めておきながら、バレンタイン王はそう命じた。
身を震わせて、ベルベットは踊りを再開する。だが恐怖で縮こまり、足がもつれ、無様に転んだ。更なる恐怖がその身を震わせる。
悲鳴を上げようとしたのだろうベルベットを、容赦ない叱責が打ち据えた。
「何をしている」
乾いた鞭の音。白い、汚れのない、この世のすべてから守り通されなければならないはずの小さな背中に、赤い軌跡が描かれる。
ベルベットは悲鳴を上げなかった。歯を食いしばり、その狂乱に耐えた。
「踊れ。舞え。余を慰めよ。その美しい身体で。その美しい舞いで。
母親からかすめ取った命で、あれを失った余の渇きを僅かなりとも癒さぬか」
バレンタイン王の声は、寧ろ淡々としていた。それがベルベットには恐ろしかった。
鞭は容赦なく、だが狂乱が終われば優しく癒された。母に似た身体に傷を残すわけにはいかないと。その甘い声がベルベットには何よりも恐ろしかった。
飴と鞭とで己を縛ろうとする祖父の言葉に、歯を食いしばりベルベットは堪え忍ぶ。
「さあ、舞え。ベルベット」
ベルベットは立ち上がり、舞い始めた。腕に絡んで光る鎖が、蝶のように宙を踊った。
* * *
回廊の影からこちらを睨む幼い視線を、バレンタイン王は無視した。
捕らえ、鞭をくれてやろうとしても無駄だ。幼いながらに狡猾なあの子どもは、自分から逃げる術を心得ている。それに捕らえるまでもない。どうせ何もできないのだから。せいぜい己の無力を噛みしめるがいい。父親のように。
城に飾られている肖像画は、今の自分からは程遠かった。ベルベットが時折これを見上げ、違和感に戸惑っているのをバレンタイン王は知っていた。
柔和な微笑を浮かべ、背筋をまっすぐに伸ばした、遠い日の自分。あの頃の自分のことを、バレンタイン王自身も己のこととは思えない。
あの頃の自分は無知だった。激しい感情を、狂おしいまでに身を焦がす炎を、あの頃の自分は知らなかった。だから無駄なことに気をかけていられたのだ。
民のことなどどうでもよい。いくら血が流れようと、それが一体どうしたというのだ?
あの女のこと以外、大切なものなど、何も。
「踊れ。舞え。ベルベット。余の心を慰めるのだ」
夜ごと繰り返される儀式。時には朝も、昼も、日が暮れるまで、暮れてからも繰り返される、幼い舞姫の踊り。形容するならばそれは命乞い。負け犬のように惨めに媚びて、娼婦のように縋りつく。時を忘れて溺れさせられる、夜伽のような狂気の沙汰。
この飢えと渇きを、僅かなりとも癒せるのはこの娘だけ。あれを失った余の悲哀を、僅かでも癒せるのはこの踊りだけ。母親のように振る舞え。母親のように笑え。母親のように余の傍に。母親のようにいつまでも。
(そしていつか、余を裏切るのか?)
バレンタイン王は吠えた。前触れもなく鞭を掴み、幼い肢体にそれを振り下ろす。繰り返し、繰り返し。王の耳に届くのは荒い息だけ。
ベルベットは歯を食いしばり痛みに耐える。バレンタイン王は鞭を振るうことで狂気に耐える。
何がこの痛みを忘れさせる。何があれの代わりになる。代わりなどいるはずがない。あれの代わりなど、どこにもいるはずがない。
あれは死んだ。余が殺した。もうどこにもいない。
バレンタイン王は吠えた。その声は、泣き声のようだった。
* * *
いつから、この狂気は始まりを告げたのか。
あれが余を裏切り男と睦み合ってからか。
あれが余に男への愛を告げたときからか。
あれの腹が膨らんでからか。あれが子を生んでからか。
双子が成長してからか。あれが子に愛を注いでからか。
あれを、この手で殺したときからか?
あれの遺した言葉を、目にしてからか?
いつから狂っていたのだ?
思い出すのは、初めてあれを目にした瞬間。
妃の腕の中で眠るあれを、この腕で抱きしめた瞬間。
あれは笑ったのだ。余を見ながら。手を伸ばした。
腕の中には世にも美しき女。
何よりも愛おしい、我が娘。
いつから狂っていたのだ?
バレンタイン王は呟いた。足元には傷だらけの孫娘。
気絶したそれが、在りし日の娘に重なり、王は膝をつき、優しくその頬を撫で、目を閉じた。
――…きっと、最初から。
初めて娘を目にした瞬間から、この渇きに果てはない。