宴の夜に

 火照った体に、夜風は心地よかった。息を吸いこめば、森の大気に血と煤の臭いが混じっているのに気づく。  メルセデスは喉を詰まらせ、だが、息を吸うのはやめなかった。血と、炎と、失われた命の匂い。  後ろからかけられた声に安堵したのは、見慣れた夜闇に、その中で瞬く光に怯えてしまったせいだと思う。 「おいおい、今夜の主役がこんなところで油売ってていいのか?」 「カエル」  そういう蛙も、今夜の主役の一人には間違いなかった。人望に乏しく前女王の威光に頼るしかない自分が反乱軍に勝利できたのは、この蛙が敵軍を大混乱に陥れてくれたのが大きい。  メルセデスは蛙を見下ろした。その仕草は、俯いたようにも見えた。 「ねえカエル。お前、どうして私の味方をしてくれたの?」 「ああ?」  意外とこの蛙は表情豊かだ。怪訝そうというより、むしろ呆れたようにも見える顔を見下ろして、(どうして私、蛙の表情がわかるのかしら?)と、メルセデスは内心ふしぎに思った。 「だって、お前は呪いを解きたいんでしょう?  力ある妖精のくちづけが必要なら、メルヴィンでもよかったじゃない」  戦力、指導力、志気、すべてにおいて女王軍にまさっていた反乱軍に勝利できたのは、この蛙の手助けあってこそだ。  だが呪いを解くために力ある王族に恩を売る必要があったという蛙は、必ずしも女王軍に、メルセデスに味方する必要はなかった。優勢だった反乱軍の首魁メルヴィンに味方したほうが確実だったのではないかと、メルセデスは考えたのだが。 「お前、そんなこと言って約束を反故にしようとしてるんじゃないだろうな」 「そ、そんなことないわ! 約束は果たすわよ……いつか」  返ってきた溜め息に、メルセデスは慌てて返事をした。いささか情けない返事ではあったが。 『くちづけするのは私じゃなくてもいいんじゃない?』なんて、そんなこを言いたいんじゃなかったのに。  メルセデスの尻すぼみな返答に、もう一度溜め息をついて、蛙は口を開いた。 「まず一つ。最初から有利な奴に味方してもあまり有り難がられない。貴方は私の命の恩人です、ってぐらいの恩じゃないと、気位の高い妖精は毒蛙なんかにくちづけてくれないだろう?」  物知らずの子どもに常識を説くような口調に言いたいことはあったが、メルセデスは素直に肯いた。蛙に拾ってもらった石弓は国の宝であり、自分にとって命と同じくらい大切な母の形見でもある。 「二つ。反乱を企てるような腹黒参謀より新米女王のほうが取り引きしやすい。恩を売っても仇で返されそうだからな。素直な女王陛下なら約束を守ってくれると思ったのさ」  新米女王と言われ機嫌を損ね、素直と言われて褒められたのかしらと首を傾げ、メルセデスは戸惑った。どう返答したものか、答えが出るのを待たず、蛙の話が続く。 「その三。俺には妹がいてな。双子だけど」  突然の身の上話に、メルセデスは不意を突かれて蛙を見つめた。妹と聞いて思わずリボンをつけた薄紅色の毒カエルを想像してしまい、慌てて首を振った。 「年下の女の子の命を狙うような奴は、好きじゃない」  何気ない口調で言われた蛙の言葉に、メルセデスは目を瞬かせた。  蛙は静かに、こちらを見上げていた。 「兄貴みたいなやつだったんだろ?」  沈黙の帳。遠くから祝宴の声が聞こえてくる。笑いさざめき、勝利を祝う皆の声。  メルセデスは蛙の隣に腰かけ、その音に耳を澄ませた。 「別にね、そんなに仲がいいわけじゃなかったの」  口を開けばすんなりと言葉が流れ出た。そうか、自分は聞きたかったんじゃない、話したかったのだと、やっとわかった。 「いっつも薄笑いで、口調は馬鹿丁寧で、何考えてるのかわからなくて……向こうも、私のこと嫌ってたと思う」  何を考えているのかわからなかった。いつも丁寧な口調で、優雅で分をわきまえた臣下の態度で、だからこそ、何を考えているのかわからなかったし、興味もなかった。 「でもね」  メルセデスは話を続けた。 「お母様、メルヴィンは従兄弟で、兄のようなものだから、頼りなさいって仰ってたの。メルヴィンにも、そう言ってたみたい」  兄と、妹。思い返せば確かに、そんな関係だったのかもしれない。出来が良く母の手助けをしていたメルヴィンと、王権を持ちながら政治に無関心で、そのくせ母の助けになりたいと願っていた私。  互いに無関心で、けれど、心のどこかで、互いに妬み合っていたのかもしれない。 「だからね」  息を吸いこむ。森の大気に混じった、煙る炎と、流された血潮の臭い。 「私が、もっとしっかりしてたら、こんなことにはならなかったのかなぁって」  声が掠れた。後悔ばかりだ。私が、もっと、しっかりしていたら。メルヴィンに付け入る隙を与えなければ、メルヴィンが謀反を企ててもすぐに気づけたなら、メルヴィンが謀反を企てるほどに、頼りない後継者でなかったら、こんな戦は起こらなかったのに。  俯いて、顔を隠したメルセデスに、静かな声が降りてきた。 「悔やんだって仕方ないさ。忘れなければいい」  こちらを見ないで、腕を組み胸を反らして空を見上げている蛙は、不思議と堂々として見えた。 「正しかったって証明して見せろ。血筋がどうとか関係なしに、王に相応しいのは自分のほうだったんだって、自分に付いてきてくれたやつらに証明すればいい」  こちらを向いた蛙は、笑ったようだった。 「少なくとも俺は、お前のほうが王に相応しいって思ったから、味方したんだ」  その四。冗談めかして告げられた言葉に、不覚にもメルセデスは涙ぐんだ。蛙は何も言わず、こちらを見ないふりをしてくれている。  遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。 「陛下!」 「爺や」  慌てて目尻をぬぐい立ち上がれば、蛙と同じくらいの背丈の、馴染みのリリパットが駆けてくる。目元が赤くなってないかしらと心配しながら、メルセデスは爺を迎えた。 「探しましたぞ。陛下の姿が見えなければ皆が不安に思います。  宴に夢中でまだ気づいている者は少ないですが、そろそろ戻っていただかなくては」 「ごめんなさい、すぐ行くわ」  長くなりそうな小言を断ち切って返事をする。一人になりたいという気持ちはわかってもらえていたのだろう。爺はそれ以上何も言わなかった。  先んじて歩き出した爺の後を追いながら、後ろの蛙をふり返る。「俺はもう少しここにいる」と、こちらが問うよりも先に返された言葉に肯いて、メルセデスは呼びかけた。 「カエル」  走り出した足は止めずに、声を張り上げる。 「ありがとう!」  蛙がどんな顔をしたかは見届けず、メルセデスはふわりと浮かび上がり、一目散に羽ばたいた。爺の「はしたないですぞ」という小言に、どんな返事をしたかは覚えていない。  真っ赤に染まった頬が、宴の席に戻るまでには冷めることを願いながら、メルセデスは脇目もふらず飛び続けた。   *  *  *  宙を飛ぶメルセデスの背中はあっという間に遠ざかる。 「はしたないですぞ」という爺の苦言と、悪びれないメルセデスの返事を最後に、辺りには静けさが舞い戻る。  遠くの光に消えた背中を見送って、なんとはなしに、イングヴェイは身を震わせた。 (なんなんだろう、な?)  自分で思うよりも、夜風が寒かったのだろうか。両生類になったこの身は寒さに弱い。 「やっぱり俺も戻れば良かったかな」とひとりごちて、カエル風情がと蔑まれるのも英雄扱いされるのもごめんだと思い直した。  反乱を収められたのは、女王が自ら奮起したからだ。それ以上でもそれ以下でもないと自ら納得して、改めてその場に座り込む。 (……なんなんだろう、な)  どこか寒いような、身の内に風が吹いているような、どことなく据わりの悪い心地に戸惑う。俺は、焦っているのだろうか。  ここにいるのは、呪いを解くためだ。不器用なカエルの手では複雑な魔法の印を描けない。目的を果たすためにはどうしても呪いを解く必要があった。  あの甘ったれの手助けをしたのは、彼女の政敵と取り引きするのはあまりに危険が大きかったからだ。メルセデスには話さなかったが、メルヴィンに味方していた魔法使いは俺を呪った敵の一味だった。  敵に味方するわけにはいかず、かといってここで彼女に死なれては都合が悪い。本当は、ただそれだけのことだった。  そのはずなのに、くちづけを迫られた彼女が嫌そうな顔をしているのを見て、気がつけばそう急ぐわけでもないと無理強いをやめ、ふり向いた彼女が傷ついた顔をしていたから、気がつけば慰めるような話をしていた。がらでもない打ち明け話までして。これは一体どういうことだろう。  イングヴェイは首を振った。蛙になって頭まで悪くなったのだろうか。彼女は光の中を生き、俺は闇の中を生きる者だ。たまたま奇妙な縁で味方をし、一時を共にした。ただそれだけの相手だ。いつかは別れ、そしてそのまま、二度と会うこともないだろう。  そう考えれば、一層寒気が増した気がした。一体これはどうしたことか。  考えるのを止め、イングヴェイはやはり宴に向かうことにした。  きっと腹が減っているんだ。腹が満たされれば、この妙な感覚も消え失せるだろう。それは飢えや寒さとよく似ていた。  彼女の笑顔を見れば、彼女の声を聴けば、きっとこの寒さは消え失せるだろう。飛び去る彼女の背中を見送ってから始まった感情が何を指すのかは知らないままに、イングヴェイは確信を抱いて遠くの光を目指し跳び始めた。