イカロスは太陽に焦がれて■■た
ゴミの散らばる床。放置された生ゴミの腐臭。電気の消えた薄暗く狭い部屋で、子どもは唯一の温もりを抱きしめた。
柔らかい、ぬいぐるみ。ぎゅっと強く押したお腹から、ボォォォっと炎の音が鳴る。
そのデザインが実在するヒーローのものだと、当時の彼は知らなかった。大事だったのは、親が買ってくれたものだから。例えたまたま懐が温かかったときに、売れ残って値引きされていたものを見かけただけだったとしても、それはかけがえのない宝物だった。
だから、彼は知らなかったのだ。闇に底はなく、見上げる光にも果てはないのだと。
「鷹見、啓吾くんだね?」
家に押し入ってきた見知らぬ大人たちに、子どもはぬいぐるみを抱えたまま目を瞬かせた。
盗みを働いた彼の父親を逮捕したのが、抱えていたぬいぐるみのヒーローだと彼が知ったのは、しばらく後のことになる。
* * *
目隠しをされた世界は暗闇だが、そこは味気ない暗黒などではなかった。背中の翼からこぼれる羽根が、脳裏に周囲の情景を映し出す。両の眼で捉えるよりも、鮮明に。
指示に従い、羽根を所定の位置に移動させる。配置された障害物を躱し、どかし、すり抜ける。一枚ずつではなく、並行していっぺんに。
(素晴らしい個性だ。君の剛翼、正確には羽根の集合体だが、体から離しても知覚して操作できるなら、例えば知覚した空気の振動を君に伝えることもできるだろう。もちろん訓練次第だが、汎用性に優れた一流の)
興奮して唾を散らす学者だか教官だかの興奮が伝播することはなかった。
重要なのは自分の個性が使い物になるということ。ろくでなしではあったが稼ぎ頭だった父なしでも生きていける環境を、家族に用意してもらえることだった。
「お見事。もうすっかり自由自在だね」
「いいえ、まだ一枚一枚のパワーは目標値に達してないわ。
食事のバランスを見直して、羽根の剛性と回復力の向上に努めましょう」
「はーい。ま、お手柔らかにお願いしますよ」
へらりと笑い、目隠しを外して自室に帰る。どちらかというと、軽薄な愛想笑いのほうが熟達した自信があった。父親の笑顔に似てきた気がして、鏡に強張った自分の素顔が映るのにほっとする。
用意された部屋に私物は少ない。べつに禁止されているわけではないのだが、彼らの目に自分の内心を触れさせるのは抵抗があった。
そんな数少ない私物から、歳にしては子どもっぽいぬいぐるみを取り出す。いや別に、趣味は人それぞれだが。
ホークスは特別ぬいぐるみが好きなわけでも、このぬいぐるみに思い入れがあるわけでもなかった。ここに来たとき、たまたま持っていた。それだけのぬいぐるみに語りかけるのが、我ながら寂しい趣味になっている。
「ねぇ、エンデヴァー。知ってますか? 俺のこと」
もう炎の音が鳴ることもなくなったぬいぐるみを持ち上げて、ヒーローの名前を呟く。
燃え盛る炎のヒーロー。テレビで見かける目つきはいつも厳しくて、子どもの質問に答えてくれそうにない。
「あなたは俺を、助けてくれたんですか? それとも、籠に閉じ込めたんですか?」
* * *
問いかけてみたほど現状を悲観しているわけではないが、生家にいた頃が不幸だったわけでもない。
無論、近い将来悲劇的な事態が起こっていた可能性は高いし、そうでなくとも生きる選択肢がじわじわと狭まっていくことに気づきもしなかったろうが、ヒーローになる以外の道を絶たれた今の身の上とどちらが不自由かと尋ねれば言葉に詰まる。
わからないのだ。父親を奪った彼を憎めばいいのか、救い出されたことに感謝すればいいのか。
わからないから、ファンでもないのに彼の情報を追ってしまうし、テレビで見かけるとチャンネルを変えようとしていた手が止まってしまう。
わからないから、ちょっと彼の担当地域まで飛んでみた。
ストーカーっぽいと自分でも思うが、言い訳させてもらうと飛行テストの目標地点に設定しただけだし、どうしても会いたいわけじゃないし、そもそも会えたところで会話のネタがない。
「すみません、昔あなたが逮捕した男の息子ですが、感謝すればいいのか怨めばいいのか教えてくれませんか」って? きもちわるっ!
結論から言うと、会えなかった。遠くから見かけただけだ。
彼は、走っていた。通報を受けたのだろう。炎を四肢から吹き上げて、速く、高く、網膜に一条の軌跡を残して。
俺より速く、飛んでいた。
* * *
(ねぇ、エンデヴァー、知ってますか? 親から期待されなかった子どもが、どう育つのか)
避けていた情報を集めれば、呆気なく彼の私生活は丸見えになった。
スキャンダルになってないのが不思議だが、媚びない姿勢からの不人気が幸いしてるのか、No.2ヒーローの権威というものか。こっちには関係のない話だが。
妻の個性。子どもは四人。うち一人は死亡。妻は入院中。末っ子の火傷は個性によるものではない。あとどうでもいいが、長女は俺と同い年だった。
情報を繋げれば、彼が何をしようとしているかは見えてくる。個性婚。己を種馬に堕してでも、次世代に夢という名のエゴを託した、惨めな振る舞い。
(なんだ。諦めてたのか、あんた)
生ゴミの腐臭のする、薄暗く狭い部屋を思い出す。広々としているだろう彼の邸宅は、あの頃の自分の家と同じ臭いがしている気がした。
No.1ヒーローはオールマイトで、No.2ヒーローはエンデヴァー。それが近年の常識であり、決して揺るがない順位付けだ。
だがそれも、じきに終わるだろう。諦めは行動に、そして結果に出るものだから。
(ねぇ、エンデヴァー、知ってますか? 望まない重い期待を背負わされた子どもが、どう育つのか)
恐らくは彼の最高傑作だろう末っ子の写真を思い出す。もし彼に体育祭指名ができるようになったら、指名してみようかな。そんなことを考える。
話が合う気がした。錯覚だが。話を聞いてみたい気がした。どうでもいいことだが。
「まるでイカロスね。太陽に焦がれて墜ちた」
「さすが公安委員会のエリート様。皮肉も洒落ていらっしゃる」
一度話を振ってみたら、上司のような昔馴染みはそんなコメントをお出しした。ヒーローの「私生活」に干渉する気はないらしい。知っていたが。俺もそうだが。ここにあるのは法を守り秩序を敷こうという意思で、正義ではない。知っていた。
リクエスト通り、ヒーローランキングを駆け抜ける。己にできる最速で。十代でベスト10入り。史上最年少史上最速。そんな謳い文句もどうでもいい。
その間ずっと、エンデヴァーはNo.2のままだった。俺にも抜かせない。失墜する様子はない。諦めたはずなのに、張り合うように、検挙記録を伸ばし続けている。
諦めろよ。ぬいぐるみに向かって言ってみる。ってか、諦めたんでしょ。無理でしょ、オールマイトを超えるなんて。言うだけ無駄だと、すぐに悟った。
諦め方がわからないと言わんばかりに、愚直に駆け続ける不器用な彼の背中を、ずっと追いかけている。どんなに俺が速く飛んでも、その背中に届かない。
不滅のNo.1を追い続ける、不動のNo.2。俺がNo.3になっても、その差は縮まらなかった。
追い越したくもないのだと悟った頃。永久不滅と思われていたオールマイトは、怪我を理由に事実上の引退。
エンデヴァーは念願のNo.1ヒーローの座を、望まぬ形で手に入れることになった。
* * *
「ヒーローが暇を持て余す世の中にしたいんです」
告げた笑顔は、自分でも珍しいくらい嘘がなかった。本音だったのもある。
ヒーローがこんなにも求められる世の中じゃなかったら。俺はもっと、自由に空を飛べただろう。
(飛べるやつには飛んでほしいじゃないですか。ねぇ?)
こちらを見下ろす男は、そんな弱音には同意しないだろう仏頂面だった。つれないことで。頭の中で肩を竦める。
今までも顔を合わせたり協力したことがないわけではないが、これが彼との付き合いの終わりの始まりと思うと、感慨も一入だった。
『安心しました。かっこよかったですよ』
その言葉にも嘘はなかった。俺はあなたの、全部を知ってるわけじゃない。
当然だ。ずっと見ていただけ。追いかけてきただけ。それだけで全部を知れるなんて、自惚れちゃいない。あなたが俺の期待通りの人かなんて知らない。
信じてるだけだ。ずっと信じたかったんだと、気づいただけだ。
『啓吾くんは、どんなヒーローになりたい?』
訓練の始まった幼い頃。
お決まりの質問に、後にホークスと呼ばれるヒーローになる少年は、彼にしては珍しく、恥じらって俯いた。
『エンデヴァーみたいなヒーローになりたい』
遠くから、予期せぬ暗影が迫る。激闘が始まる。
その前の、ほんのひととき。ホークスはエンデヴァーを見上げて、心の中で問いかけた。
(ねぇ、エンデヴァーさん、知ってますか? 俺は、)
万感の、届けない想いを告げる。
(あなたがいなきゃ、こんなに速く飛べなかった)
イカロスは太陽に焦がれて羽ばたいた。
墜ちたとしても、きっと、後悔はないだろう。