恋する乙女の叶わぬ夢
「アルビオン領主になる夢、ですか?」
「ああ。あの決闘で、不正をしなかったら、という世界だったのだろうな」
グランサイファーを騒がせた悪夢の一件が終わって、愛するカタリナ・アリゼはどんな悪夢に苛まれたか聞かされたヴィーラ・リーリエは、その声に目を瞬かせた。
「あの島で、鬱々と過ごしていた……ルリアと会うこともなく、この船に乗ることも、旅に出ることも……
いや、すまない。君は、君に、ずっとあんな想いをさせていたのだと、改めて思い知ったんだ」
「謝らないでください、お姉様。私も、同じ夢を見ましたから」
愛する人と同じ夢を見た喜びに、ヴィーラは頬を上気させた。
陶然とした、狂気すら揺蕩う赤い瞳に気づかず──あるいは受け流して、カタリナはきょとんとした。愛らしい仕草にヴィーラは興奮を強める。
「君も? その、君にとっては、私が領主になるのは……」
「うふふ。前にも申し上げました通り、私は、お姉様の代わりに領主をするのは、別に苦ではなかったんです。
あの島は、お姉様には狭すぎましたから」
うっとりと、あの甘美に苦い悪夢を反芻する。
夢の中で、鬱々としていたカタリナお姉様。記憶を書き換えられていたときはひたすらに苦かったが、正しい記憶を取り戻し振り返ってみれば、それは自分の選択の正しさを実感させた。あの日々は、領主として過ごしていた日々は、確かにカタリナお姉様のお役に立っていたのだ。
「そうか……なら、あの悪夢を見たことも、そんな悪い経験ではなかったのかもしれないな」
「はい、お姉様」
晴れた爽やかな微笑みに目を細め、ヴィーラは頷く。胸のうちには、夢で見たカタリナの姿があった。
そう、悪い経験ではなかった。自分の選択は正しかったと実感できた。けれど、二度と見たくはない。
夢の中の、鬱々としたカタリナお姉様……私がそばにいて、お支えしても、慰められこそすれ、決して満ち足りることのないカタリナお姉様。
「お茶にしようか、ヴィーラ。モルフェとヴェトルも誘って」
「はい、ルリアちゃんと団長さんもいっしょに」
珍しく他者を誘うヴィーラに、カタリナが目を細めて頷く。あの二人を誘えば、忌々しいトカゲも付いてくるだろうが、今日くらいは我慢しよう。仄暗い情念を閉じ込めて、ヴィーラは歩く。
世界で、カタリナお姉様とふたりきり。そんな狭い世界では、カタリナ・アリゼは満足できないのだと、思い知りながら。
悔やむ騎士の挫けぬ誓い
煙が、アルスター島を覆っていた。
燃えている。故郷が、彼が滅ぼしてしまった故郷が。ようやく向き合う勇気を持ち、仲間とともに帰郷したノイシュの目の前で、故郷は火を吹いて焼け焦げていった。
「何が……セルエル様、ヘルエス様!!」
走る。復興が始まっていたと聞いた。順調だとも。王家の生き残り、ヘルエス王女とセルエル王子の指揮の元、生き残った民は国を再建し、新たな道に進んでいたと。
その道が、唐突に途絶え、焦げつき、失われようとしている。
「ノイシュ様っ? なぜ……」
「すまない、これは、一体なにが……」
炎から命からがら飛び出してきた民に、ノイシュは尋ね、目を見開いた。心臓が転がり落ちる音がする。
「なぜ、もっと、早く……」
音が、遠い。世界が。失われようとしている。だが、どうすることもできない。
民の腕の中に、見覚えのある御姿があった。一目でわかる。息をしていない。死に顔すら高貴なふたり。彼の仕えた王家の、最後の末裔。ノイシュの幼馴染み。家族のように接してくれた。
ヘルエス王女と、セルエル王子の死に顔が、炎に照らされてノイシュの目を焼いた。
「マフィアが、襲ってきたんです。お二人は、俺達を庇って」
何も聞こえない。何もわからない。なぜ、もっと早く。声が反響し、ひび割れる。
なぜ、もっと早く。帰らなかった。滅んだ故郷から目を背けて。足早に立ち去って。復興に携わることなく。弔いだ、巡礼だと言い訳して。なぜ。どうして。お前が。
お前が、ふたりを見殺しにした──。
絶叫が、ノイシュの喉を割り、世界に轟き、しかし何も壊すことなく、無力に炎に巻かれて消えていった。
* * *
「という夢を見たわけですか」
「はい……」
今回の一件で見た悪夢を話し終えて、ノイシュはほっと息を吐いた。
確かに、話せば少しはすっきりとしたようだ。胸にかかる靄が、すっかりと消え失せたわけではないが。
「巡礼の旅に出て、復興に携われなかった罪悪感が、あの夢を見せたのでしょう。
今でも、思うことがあります。もっと早くアイルストに向き合う勇気があれば、もっとセルエル様とヘルエス様のお役に立てたのではないかと……無益に、自分の苦しみに甘えることなく」
「ノイシュさんの旅は無駄なんかじゃありません!」
冷めてしまった紅茶の水面に、澄んだ少女の声が波紋を投じた。
俯いていた視線を上げれば、眩しいほどにこちらを見る少女の青い瞳が、まっすぐに自分を射抜いた。
「だって、ノイシュさんは、私達を守ってくれました!」
「そうですよ、ノイシュ。貴方はルリアさんの笑顔を守ると誓ったのでしょう?」
静かにセルエルが指摘する。嫌味のない、穏やかな口調だ。
「なら、それを悔やむような言動は感心しませんね」
「いっ、いえ、それは、団長たちにはもちろん感謝しております。
ただ、あまりに恩が厚く、申し訳ないばかりで……」
「もうっ、そんなの言いっこなしですよ!」
「そうだそうだ! ノイシュはちょっと気に病みすぎたぜ」
「それに、夢の内容にも少々文句をつけたいところですね」
ルリアとビィに援護、というにはいささか厳しい声音で加わったのは、視線を尖らせたヘルエスだ。紅茶のお代わりを手ずから淹れながら、得手としている槍のような鋭さで言葉を投げてくる。
「私が鍛え直した兵たちが、マフィアを相手に為す術もなく敗れるなど、ありえません。
その時点で夢だと気づくべきでしたね、ノイシュ」
「ヘルエス様、それは」
「はっきり言いますが、もし貴方がアイルストに残り、復興の手伝いをしようとしていたら、私達のほうで貴方を旅に送り出していました。
父王の遺言のせいで、当時は国が滅んだ原因は貴方だと思う者が多かったですから」
愚王、と呼ばなかったのが不思議なほどの苛烈さでヘルエスは告げた。
民の人望厚き我が子に嫉妬し、栄誉を求めノイシュを死地に追いやり、国を破滅に追い遣った挙句すべての罪をノイシュになすりつけて死んだ父を、ヘルエスもセルエルも決して許してはいない。
「私達が時間をかけて民を説得し、国を復興させ、セルエルが貴方を見つけて……それでようやく、アイルストが貴方を受け入れる下地が整ったのです。
ノイシュ。これで良かったのですよ」
自分も席に座り、ヘルエスは紅茶の香りをゆっくりと味わった。アルスターから送られてきた茶葉だ。懐かしい香りに思い出が蘇る。
「私はもう王女ではなく、セルエルももう王子ではない。けれど、貴方は変わらず、アイルストの騎士なのです。
私は、貴方を誇れる故郷を取り戻せて、とても嬉しい」
「ヘルエス様……」
暖かな静寂が場に満ちた。ヘルエスの言葉が、ルリアの、ビィの、セルエルの言葉の余韻が広がり、胸に満ちる。
これで良かったのだ。己の罪を忘れることできない。責めないでいるのも難しい。
だが、罪に囚われ、新しい出会いを忘れ、重ねた時を忘れることも、またすまい。彼を信じ、導いてくれた者たちに、それはあまりに非礼であるから。
「吾も、そなたの夢には一言申したいぞ」
沈黙を守っていた少女、の姿をしたアイルストを守る真龍が、ノイシュを睨めつけた。
「なぜ、吾はそなたの夢に出ていないのだ」
「はっ? スカーサハ、それは、あの夢の時間では、私は君と……その、ちゃんと言葉を交わしてないからで」
「納得いかん。もう一回見直せ」
言い放つと、スカーサハは威厳ある仕草で、善は急げとばかりに席を立った。
「モルフェとヴェトルを探してくる。
そんな胡乱な夢など二度と思い出せんくらいのとびっきりの悪夢を用意してやるから、首を洗って待っているがいい」
「なっ、待て、スカーサハ!!」
「おや、良いですね。私も協力しましょう。自慢の親衛隊の見せ場を用意しなくては」
「ヘルエス様?!」
「じゃじゃ馬達は放っておきなさい、ノイシュ。それより、お茶のおかわりを」
セルエルに催促され、身動きできなくなった隙にスカーサハとヘルエスは行ってしまった。途方に暮れるノイシュに、ルリアが「みんなでお茶会ですね!」と手を叩いて喜んで、ますます何も言えなくなる。
幸せな昼下がりに、悪夢の忍び寄る隙は微塵もないのだった。
竜殺しの終わった夢
正義は成された。だがそれは、正しかったのだろうか。
「ランちゃん、ランちゃん、ランスロット! ……ジークフリート、てっめええええ!!!」
いつも陽気で前向きさを忘れなかった青年が、憤怒の形相で獲物を手に襲いかかってくる。勢いはいいが、隙だらけだ。
軽く横に躱す。地面に突き刺さった斧をバネにして追撃。手加減する余裕はなかった。
「ヴェインさん!!」
駆け寄ってきた僧侶の娘が、倒れ伏したヴェインを必死に癒やすが、それ以上の戦意はなかった。
阻むものはもういない。惨めに倒れ伏した女を、冷徹に見下ろす。
「シルフっ、ランスロット、クソ、どいつもこいつも役立たずのゴミクズどもがぁ!!」
「屑はお前一人だ、イザベラ」
「ジークフリート、まっ、待て、わかった、お前の言うとおりにしよう。アルマだって分けてやる、今すぐ使えば、そこに転がってるやつも助かるかも゛っ!」
「ランスロットを殺す前だったら、躊躇ったかもな」
振り下ろした剣に感慨はなかった。長年の因縁を断ち切る音も、重い肉を突き刺す感触も、ここに至るまでに殺めてきた命に比べれば、あまりに軽い。
「俺にランスロットを殺させたのはお前だ。せいぜい悔やめ、イザベラ」
「あ゛、がっ!」
流れる血といっしょに霊薬が滲み出たのか、イザベラの皮膚が灰色に縮んでいく。自慢の艶やかな黒髪は細くしなびた白髪になり、そこにあるのはもう、仇敵の面影を感じさせない、惨めな老婆の死骸だった。
「ジークフリート、これは、一体、何が……」
最後まで蚊帳の外だったカール王が呟く。急な戴冠に対応するため、国政のすべてをイザベラに一任していたが、これからはそういうわけにもいかないだろう。
申し訳なく思うが、ジークフリートにはこれ以上、手助けはできそうにない。
「……良い王におなりください、陛下。
貴方の良き心を気遣い、汲み取ってくれるような、良き臣下を見出してください」
駆けつけてきた、イザベラの息がかかっていない、ランスロットの部下たちに投降する。
抵抗する気はなかった。目的は果たした。言いたいことも言えた。もっと早くに言うべき言葉だった……ヨゼフ王が亡くなったときに、言うべき言葉だった。
望みはすべて果たした。だが。
「ヴェインさん、ヴェインさんっ! ランスロットさん、シルフ様、そんな、いやあああああ!!」
僧侶の娘が絶叫する。これは果たして、正しかったのか。
どうして、こうなってしまったのか。
* * *
「イザベラの私室を調査した結果、霊薬アルマと、副産物カルマについての書類が出てきた」
地下牢を訪ねてきたカール王は、やつれていた。恰幅のいい御仁だったのにと申し訳なくなる。
「ワシは、なんということを……
イザベラを信用し、そなたの無実を見抜けず、みすみすランスロットたちまで……」
「陛下の優しい御心に付け込んだイザベラが元凶なのです。あまり気に病まないでください。
陛下にはこれから、フェードラッヘを建て直していただかなくては」
震えたカール王が、濡れた瞳をこちらに向けて懇願する。
「ジークフリート、そなたも手伝ってはくれんか?
イザベラの罪を公表し、そなたの無実を証明する。そうすれば」
「なりません、陛下」
カール王らしい懇願に、ジークフリートは首を横に振った。
「国民の支えだったシルフも、騎士団長として羨望を集めていたランスロットまで、俺の手にかかったのです。
表向きは有能だったイザベラが死んだ以上、口を封じたのではと邪推する者もいるでしょう。そうなれば、陛下の人望まで危うい」
「ワシの人望などっ!」
「貴方はフェードラッヘの民の、最後の心の支えなのです、陛下。貴方まで失えば、この国は本当に立ち直れなくなる」
カール王の口髭が震えている。申し訳ないが、譲るわけにはいかない。
「これで良いのです、陛下。
私はもう、成すべきことを、果たしましたから」
* * *
処刑の日は、よく晴れていた。別に雨でも良かったのだが。陰気な自分にはお似合いだっただろう。
「先王ヨゼフ様を殺し、星晶獣シルフ様を殺し、執政官イザベラ様を殺し、白竜騎士団団長ランスロットを殺した大罪人、ジークフリート!!」
怨嗟に満ちた歓声が処刑場に満ちた。
怨むといい。憎むといい。その気持ちが、こんな不条理に負けないという想いが、明日を生き抜く力になればいい。
処刑場を囲む熱狂の中に、醒めた気配を感じる。そちらを見やれば、懐かしい赤髪の騎士が、睨むようにこちらを見ていた。
来てくれたか。少しの間でいい、陛下を支え、導いてくれればと思う。貴賓席で目を潤ませるカール王に、胸の内で語りかける。
どうかご健勝で。パーシヴァルを頼りにしてください。貴方の篤実に応えてくれる男です。厳しいことを言うときも多いですが、困っている人間を見捨てる男ではありません。
それから、いつか、ご自分の力で国を治めてください。貴方はそれができる人です。
「前に出ろ、ジークフリート。最期に言い遺すことはあるか?」
「何も」
憎まれ口でも叩けば民の慰めになったのだろうが、生憎悠長に回る口は持ち合わせていない。大人しく処刑人に首を差し出す。恐れはなかった。
刃が振りかぶられる音。重い刃だ。竜の血を浴びたこの体も、さすがに首が刎ねられれば生きてはいまい。
今際の際に思うのは、ただの疑問。自分は果たして、正しかったのか。
どうして、こうなってしまったのか。
刃が首を通る感触が、最期に感じたすべてだった。
* * *
「ジークフリートさん、もう一本、お願いします!」
「あっ、ランちゃんズリぃ! ジークフリートさん、俺も、俺もっ!」
「構わないが、そろそろ茶会の時間じゃないのか?」
指摘すると、ランスロットとヴェインは揃って顔を見合わせ、どちらが最後の稽古試合をするのか真剣に争い始めた。
仲の良い二人だからこその真剣勝負だ。自分が相手をするより良さそうなので、快く一休みする。
「何をしているんだ、あいつらは」
「パーシヴァル、来ていたのか」
「おっ、パーさんも混ざる?」
「ちょうどいい、ニ対ニなら一勝負で済む。手合わせ願おうか」
「生憎だが時間切れだ。談話室に行くぞ」
にべもない物言いに、故国では精悍な騎士二人が少年じみた態度で文句を言う。微笑ましい光景に、ジークフリートの頬も綻んだ。
先日グランサイファーの一行を襲った悪夢の件は解決したとはいえ、被害に遭った全員が生々しい悪夢から吹っ切れたわけではない。悪夢をもたらした星晶獣が団員に加わったのもあって、団長から歓迎会と慰労会を兼ねた茶会が企画されていた。
「あっ、皆さんこちらにいたんですね!」
「おーい、なにしてんだよ。みんなもう待ってるぜ?」
「わっ、悪い、すぐに行く!」
呼びに来たルリアとビィの後ろに団長を見つけて、さすがに慌てたランスロットとヴェインが木刀を置き濡れタオルで身繕いをする。あの様子だと汗が引くにはもう少しかかりそうだ。
呆れたパーシヴァルにヴェインが絡み、思いっきりタオルを濡らしていた水をぶっかけられて歓声をあげる。
「へへっ、パーさんやっさしい!」
「やかましい、この駄犬が! くそ、こっちまで濡れた」
「おーい、あいつら置いてっていいんじゃねえかぁ? 元気がない連中の慰労会だろ?」
「あははは、ま、まあ、そう言わずに。困ったのはみんな同じですし」
呆れるビィに、苦笑するルリアの後ろで、団長も笑っている。
微笑みを返すジークフリートを見上げたルリアが、そういえば、と口を開いた。
「ジークフリートさんは、夢は見ませんでしたか?」
「ああ、見たぞ」
「「えっ」」
場にいた全員がジークフリートを見た。
「だっ、だってジークフリートさんいつもと全然変わりなかったような……」
「嘘だろ、全然気づかなかったぜ」
「一体どういう胆力をしているんだ、貴様は」
口々に言われ苦笑するが、無理もないかと納得する。
目覚めてからも現実と区別の付かない、生々しい夢だった。だが。
「すぐに夢だったとわかったからな。カタリナたちのように繰り返し見ることもなかったし、大丈夫だ」
気遣わしげにこちらを見上げるルリアの頭を撫でる。宙を飛ぶビィがやれやれと肩を落とした。
「どんな夢だったんだよ、ほんと」
こちらを見る、子どもたちに視線を合わせる。誤魔化せるとも思えなかったが、誤魔化そうとも思わなかった。
どうして、あんなことになってしまったのか。夢から醒めた今なら、それがわかる。
「お前たちのいない夢だ」
掛け値ない真実を告げて、竜殺しはあるかなきかの微笑を浮かべた。