パンケーキと
クリームソーダのサービス券
「お嬢さん、そんなに身を乗り出しては危ないですよ」
声をかけられ、沙代は川を眺めていた土手から一歩後ずさった。
見覚えのない老人だった。口髭を蓄えた品の良い身なりで、額は広がっているが灰色がかった白髪に禿げる気配はない。背筋はしゃんと伸びて、皺の一つ一つに積み重ねた年月の重みと、それを支える力強さがある。
沙代の知る下卑た老いの醜さは、そこにはなかった。不思議な方。口の中で囁いて、沙代は首を傾げた。
「あの、どなたでしょうか? 村の方ではありませんよね?」
「名乗るほどの者ではありません。東京から参りまして、危なげなお嬢さんを見かけたもので、ついお節介を」
恐縮したように頭を下げる老紳士に、下心は見当たらなかった。
あっても構わなかったのに。なんだかガッカリした気持ちで、沙代は背を向けた。
「少し、川を眺めていただけですわ。お気遣いなく」
「それだけですか? 何か、気掛かりがあるのでは?」
それは、どうにもならないことだ。
鬱屈を溜め息にして、返事はせず、沙代は家に帰ろうと背を向けた。
「お嬢さん、そちらではありませんよ」
老人に呼び止められ、わずかに苛立つ。もちろん、それを素直に表に出すことはないけれど。
「いえ、こちらですわ。わたくしの家は、こっちに……」
「そっちに行ってはなりません」
なぜ、そんなことを言うのだろう。余所者のくせに。
自分が不機嫌なことを自覚して、沙代はもう一度溜め息を吐いた。気分がささくれ立っている。なんでもない一言が、無性に腹立たしい。
老人を睨め付けると、彼は静かに、沙代を見下ろしていた。
「どうぞこちらへ。いっしょに、このトンネルの向こうへ参りましょう」
いつの間に、トンネルの前に来ていたのか。
呆然とその暗い、先の見えない穴ぐらに首を横に振って、沙代は家路を振り返った。
赤い夕暮れが照らす、彼女の家。忌まわしい、呪われた我が家。
「行けませんわ。ご存知でしょう? わたくし、そちらには行けません」
「何故?」
「何故って」
行けるはずがない。出られるはずがない。沙代はこの村に囚われている。永遠に出られない。だって。
「わたくし、人を殺したんですもの」
青い鬼火が、村を暗く染め上げた。
燃えていく。消えていく。悲鳴が聴こえてくる。焼ける人の声。怨む人の声。
ええ、そう、わたくしと同じ。みんな焼けてしまえばいいのだわ。
あのときのように、声を上げて笑おうとした沙代を、静かな声が窘めた。
「それがなんですか。私だって、戦場で大勢殺しましたよ。
でも天国行きだと言われました。地獄にお前の席はないとね。全く失礼な話です」
地獄に行きたがってるような口振りに、沙代は戸惑った。老人の立ち振る舞いは凛として澱みなく、地獄に惹かれる人には見えない。
なのに、彼の怒りは本物だった。こんなことは不公平だと、尖らせた声が、眦が告げている。
(……ちがうわ)
彼が怒っているのは、自分が地獄に行けないことではない。
紗代が、この地の底に囚われていることなのだ。
「結局生前の罪なんて関係ないんですよ。明るい晴れやかな心持ちなら天国に行けて、暗く鬱々としていたら地獄に堕ちる。それだけのことです。
あなたを苛んで殺されて逆恨みした連中だって、とっくに塵になって成仏してますよ。どうしてあなたがいつまでも苦しまなくちゃいけないんですか?」
「だって……」
老人の厳しいお顔が怖くて、沙代はトンネルに振り返った。
そっちも怖い。この暗闇が、沙代には恐ろしい。
「だってわたくし、選べましたもの。独りでこのトンネルをくぐることもできた。
でも、行けなかった。だって」
そうだ。あの人は、沙代に先に行くようにと言ったのに。
沙代は拒んだ。きっとお役に立ちますと縋りついた。だって。
「どうせ幸せになれないと、わかっていましたもの」
東京もこの村も同じ。お父様を見ていればわかる。
愚かなお父様。何も知らないお父様。沙代がどんな目に遭ってるかも知らず、何も知らない生娘のように扱って。自分の娘だと信じて。東京の土産物で機嫌を取っていた。浅ましい、何も知らされなかった、哀れな父。
あの人も同じだ。あの人が、沙代を子どもとしか見ていないことは、わかっていた。それなのに、沙代を東京に連れていくと約束して。ずるいひと。憎いひと。
沙代も。嘘をついたのだ。あの人のことなんか、何も知らない。親切にしてもらって、格好が良くて、憧れの東京のひとで、だから、浮かれたかっただけ。
どうせ東京もこの村も同じ。でも、この人といっしょなら、どこでだって幸せになれると。そんな夢に溺れたかった。ただそれだけ。
あのひとは、沙代を逃がそうとしてくれていたのに。
「……泣かないでください、沙代さん」
いつの間にか蹲って泣いていた沙代の頬に、老人が触れた。
かさついた、歳月を重ねた男の手。不快な思い出が染み付いているはずの感触が、なぜだか嫌ではない。
ここはどこだったかしら。今はいつだったかしら。わからないまま、老人に手を引かれて立ち上がる。
「確かに、この村も、東京も、どこも同じです。
弱い者は搾取され、それより弱い者を虐げて、その繰り返しで、知らないところで知らない誰かが嗤っている。
でもね、沙代さん。そればかりじゃないって、あなただって知っているでしょう?」
老人に何かを渡されて、沙代は手のひらを見た。
臙脂色の洒落たチケットが二枚。知らないお店の名前に、東京の住所が記されている。
「私の店のパンケーキと、クリームソーダのセットのサービス券です。
いっしょに食べにいらっしゃい」
「いっしょに? どなたと?」
老人は黙って微笑んでいる。
泣き声が聴こえる。ずっと聞こえていた声。聞こえていたのに、聞き流していた声。
「……トキちゃん?」
瞬間、すべてを忘れて、沙代は走った。
下駄の鼻緒が切れて、転びそうになる。下駄を脱ぎ捨てて走る。そんなことが自分にできるなんて、思いもしなかったのに。
「トキちゃん!!」
「沙代姉ちゃん!!」
飛び込んできた小さな体を抱きしめる。従弟が、あるいは弟が、沙代の腕の中で泣いている。
ああ、どうして忘れていたのだろう。この子を置いていけないと、トンネルを独り行くことを躊躇ったのは、それもあったのに。あの人といっしょに、お母様に立ち向かえば、もしかしたら。そんな夢だって見ていたのに。
沙代は結局、時弥を置いてけぼりにしてしまった。
「ごめん、ごめんねトキちゃん。ごめん……」
「姉ちゃん、沙代姉ちゃん……」
小さな熱い体を抱きしめている間に、いつの間にか、周囲は明るくなっていた。あるいは、沙代の視界が晴れたのか。
トンネルの向こう側が明るい。その傍らで、老人が微笑んでいる。
「あの、ありがとうございました。なんとお礼を言えばよいのか」
「爺のお節介です。どうぞお気になさらず。
先ほどは勢いで誘ってしまいましたが、実は私はまだあちらには行けないのですよ。
息子に、『大人になった自分を見届けてからにしろ』と、厳命されておりまして」
「まぁ……」
老人が照れ臭そうに頭を掻くのに、自然と微笑がこぼれる。
この老人がどこの誰か、実際に何をしてくれたのかは、上手く言葉にできなかったけれど、沙代は感謝した。
老人がトンネルを指さす。
「さ、気をつけて行ってらっしゃい」
「はい。トキちゃん、行きましょう」
「うん!」
しっかりと手を繋いで、ふたりで歩き出す。トンネルの向こう側、村の外へ、東京へ、それよりもっと良いところへ。
一歩進むたびに、悲しみも苦しみも過ぎ去って、甘い匂いが香ってくる。パンケーキの匂いだと思って、沙代は時弥と顔を合わせて、頷いて走り出した。
幸せの気配がする。幸せになれるという予感が。先ほどの老人の笑顔が脳裏をよぎる。
そこでようやく、沙代は老人の左の目蓋に傷があって、左耳が欠けていたのを思い出したのだけれど。
振り返るより走ったほうが早いと思い直して、足取りも軽やかにチケットを握りしめて、弟といっしょに、仲良く彼の店の扉を開いた。