「どうして妖怪なのに、人間を助けてくれるの?」
「まぁ、約束のようなものだからね」
約束と言うのなら、それは誰との約束だったのか。
冷えた暗闇の中で、鬼太郎はごろりと寝転んだ。
ここは寒い。かじかんだ肌が毛布や暖炉を探すが、億劫さが勝って、自分の膝を抱えて丸まるだけで満足してしまう。
誰かが呼ぶ声がする。か細い、遠くから聞こえる小さな声。
(鬼太郎、帰っておいで。そこは寒いじゃろう。帰ってきておくれ)
(もうちょっと、待っててください)
そう言い返して、またごろりと転がる。
疲れたのだ。もうちょっと、いじけていたい。
(おう、いいぞ。人間なんざ放っとけ放っとけ。どうなろうが自業自得さ)
明るい温かな声に頭を撫でられ、鬼太郎はしたり、と頷いた。
そうだ。自業自得だ。自分は配慮した。守ろうと努力した。拒んだのは向こうのほうだ。
(それは、そうじゃが……)
寂しげな声に首を振る。
(もうちょっと、放っておいてください。
父さんだって、昔は人間が嫌いだったんでしょう?)
(そうじゃが……)
声が潤んだ気配に、鬼太郎は悪いことをした気分になった。昔から、この声に泣かれると弱いのだ。
(泣かせとけ泣かせとけ。あいつ泣き上戸なんだよ。
一頻り泣いたら勝手にスッキリしてるさ)
(そんな薄情な)
明るい声を咎めて思わず身を起こすが、膝に力が入らない。
どうして立ち上がらないといけないのか。戦わないといけないのか。その意義が見出せない。
(だから休んでろって。お前はよくやったよ。もう放っておけばいい)
その声に頷いて、でも、言い返したい気持ちも湧いてくる。どうしてだろう。
(どうしてだと思いますか、父さん。父さんも、僕に戦ってほしいですか?
人間と、妖怪のために。人間を守り、人間と妖怪が共に生きる未来を守るために、僕に戦ってほしいですか?)
(ちがう。ちがうよ、鬼太郎。お前のためじゃ。
お前が、自分の手で、より良い未来を掴むために、そこに引き篭もってほしくはないんじゃ)
(でも、ここを出たら、また戦うことになるじゃないですか)
そう言い返して、その通りだと思うと腰が重くなった。
ここを出たら、自分はまた戦うだろう。口ではどうこう言っても、自分は人間を芯から見放すことができない。
(なんでだよ。放っておけばいいじゃないか。
お前は妖怪だ。人間に滅ぼされた幽霊族の末裔だ。
人間に興味もなけりゃ、守ってやる義理もないだろう)
険のある声に、鬼太郎は頷いた。
人間に興味はないし、好感もない。その通りだ。はっきり言って嫌いだ。父は発展した文明に興味津々だが、自分はまるで興味を持てない。
個人ならば善良で友誼を結べる者もいるが、だからこそ、種として見れば醜悪なのが際立つ。今回の件でそれがよくわかった。そうとも。つくづく愛想が尽きた。
(そうだろうそうだろう。いいぜ、放っておこう。
ああ、こんな寒いところは出て行ったら良い。ゲゲゲの森で、呑気に暮らそう。
空気が綺麗で水も旨い。良いところだ。あそこなら、お前もきっと幸せに)
「でもあそこに、あなたはいないじゃないですか」
上機嫌になった声への返事は、思いの外拗ねたものになってしまった。
しまったかな、と思いながら、勢いに任せて口に出す。
「あなたも人間なのに、どうして、人間なんて放っておけなんて言うんですか?」
(……俺のことなんざ、どうだっていいだろう)
どうしてそんなことを言うんだろう。そんなわけないのに。
呆れて黙ってしまった鬼太郎に、声が慌てて言葉を継ぎ足してくる。
(いいか、確かに俺は人間だ。縁あってお前を育てただけの、赤の他人だ。おまけにもう死んでいる。
そして、いいか。俺は、人間なんか、大っ嫌いだ! クソだと思っている!
お前も人間のくせにとか言うなよ。人間が嫌いな人間なんていくらでもいる。俺もその一人ってだけだ。
すぐ嘘をつく薄情で恩知らずな虫みたいに増えて死んでいく弱っちい生き物のために、お前が身を削る必要なんかない!!)
声は、必死だった。良く覚えている。この声に背負われて育った。
赤子から、曲がりなりにも自分の足で立ち、妖力を振るえるようになるまでの、正真正銘の子ども時代。悠久を生きる幽霊族にとってはほんの瞬きに過ぎない、始まりの年月を、この男は守ってくれた。
(そんな恩義に感じる必要なんかない。成り行きでそうなっただけだ。
俺は、そんなに良い親じゃなかったろう?)
「そうですね。よく怒鳴られました」
たくさん叱られた。真っ当なものもあれば、理不尽な八つ当たりもあった。
自分も、あまり良い子どもではなかった。いたずらをした。説教を聞き流した。八つ当たりをした。良く覚えている。
(そんなの気にするなよ……)
「気にしてないですよ」
ただ、家族だったというだけだ。血の繋がりはなく、種族も違った。
それでも、自分と父とこの男は、同じ家で暮らした家族だったのだ。
いつの間にか、鬼太郎は立ち上がっていた。
声が聴こえる。帰ってきてほしいという声。いっしょにいたいと願う声。
その前に立ち塞がる、これ以上傷ついてほしくないという声。
(行くな。いや、行っても良いが、これ以上戦うな)
「それはできません。約束しましたから」
(約束? そんなの破っちまえ。死にゃしねぇよ)
「破れませんよ。自分との約束ですから」
音がした。激しい水音。家の中に流れ込む洪水。荒ぶる水神。
その中に飲み込まれる男の姿。こっちを見て、手を伸ばして、叫んでいる。
『ぎだろうっ。ばか、ばやぐ……ぶべぼっ!!』
水に沈んでいく男を見ながら、自分は。
背中を向けて、逃げ出したのだ。今でもよく覚えている。
(それこそ気にするなよ……結局俺も無事だったんだ。九十歳超えの大往生だ。知ってるだろ?)
「知ってますよ。償いがしたいわけじゃないんです。
悔しかった、だけですから」
逃げるしかない自分が悔しかった。大きく、強くなりたかった。
それが自分の原点だった。
(……どうしても、行くのか)
いつの間にか、鬼太郎は歩き出していた。行く手が眩しい。
その光を遮るように、男が立ちはだかっている。逆光で顔が良く見えないが、今の自分より高い背が、傷痕のある懐かしい目を潤ませているのはわかった。
「そんなに心配しないでください。もう大丈夫ですから」
「心配に決まってるだろう。お前、こんなに小さかったんだぞ」
「何十年前の話ですか」
腕で赤子の大きさを表現した男に、鬼太郎は呆れて半眼になってしまったが、男も負けじと半眼になった。
「お前、今でも小さいじゃないか」
「仕方ないでしょう。幽霊族は長命なんですから、成人まで遠いんですよ。そのうちもっと背も伸びます」
「何年先の話だよ」
「……三百年くらい」
「その頃にゃ俺の魂も擦り切れてそうだな」
「駄目ですよ。僕が父さんみたいに強くて立派な幽霊族になるところを見届けてくれなくちゃ」
「無茶言うな」と男は苦笑いをした。ああ、こんな顔だったか。
手を伸ばす。男のシャツの裾を摘まむ。紫煙の香りに、懐かしさが込み上げる。
「お前は、小さくて、弱っちくて、そのくせちょっと目を離したら、すぐさまどっかに行っちまうようなやつで……
人間なんか放っておけって言ってんのに、気づいたら人助けしてて、人間嫌いのくせに、お人好しで。
そんなお前が、心配で、放っておけなくて」
膝をついた男が、鬼太郎を抱きしめてくる。太い腕。広い背中。紫煙の香りと、懐かしい温もり。
何十年経っても子ども扱いなのに、鬼太郎は心の中で言い返した。
あなたはただの人間で。当然弱っちくて。そのくせちょっと目を離したら、いつの間にかタチの悪い妖怪に目をつけられてて、自分と父が何度肝を冷やしたことか。
「人間なんか放っておけ、自分の身が一番可愛いぞ、俺だってそうだ」と事あるごとに言ってくるくせに、故なく理不尽に虐げられている命を見かけると、それが人だろうと妖怪だろうと首を突っ込んで。あのときも。
『鬼太郎っ。馬鹿、早く……逃げろっ!!』
水に沈んでいくあなたを見て、逃げるのではなく、助けに行ける自分になりたかった。
あなたのようになりたかった。それが自分の原点だと、思い出せたから。
「いってきます、水木」
「……おう、じゃあな」
「ええ、また」
往生際悪く再会をねだる挨拶に、鬼太郎のもう一人の父は、困ったふうに手を振り返してくれた。
「うっ、うぅ、鬼太郎、お前には苦労ばかりさせて」
「気にしないでください、父さん」
「何、またしょぼくれてんの?」
明るいアパートの一室で父を慰めていると、ねこ娘が遊びに来た。
爪を引っ込めた指でツンツンと目玉だけの父を小突く。
「今度はどうしたのよ、親父さん」
「うっ、うっ、わしは、わしは駄目な父親じゃあ!
我が子に健やかな子ども時代も送らせてやれない、無力な、不甲斐ない……」
「そんなことないですって」
管を巻く父を宥めていると、ねこ娘がこそこそと耳打ちしてきた。
「あー、夢の話ぶり返してんの?」
「他にも色々振り返っちゃったみたいだ」
以前、夢を操る霊と対峙したとき、鬼太郎は手も足も出なかった。
夢の世界での力は夢見る心そのもの。現実主義者な養父と大小様々な騒動に見舞われ、そもそもが人には見えぬ世界が現実そのものだった鬼太郎は、夢想する力というものが乏しいまま今まで過ごしてしまった。
そのことを恥じる気持ちも、悔いる気持ちも、あまりないのだが。
「父さん、本当に気にしないでください。子どもの頃の楽しかった思い出も、たくさんありますから」
「へぇ、例えば?」
好奇心に駆られたらしいねこ娘の問いに、鬼太郎はちょっと考えて答えた。
「お昼寝とか」
「「…………」」
「あっ、日向ぼっことか!」
「……わしは駄目な父親じゃああああ!!」
不甲斐なさがぶり返してしまった父が机に突っ伏して泣きじゃくり、ねこ娘は揶揄うのも忘れた気の毒そうな顔をして、一転、素早く立ち上がった。
「よし! 鬼太郎、遊びに行くわよっ」
「え?」
「ここで親父さんの愚痴を聞いてるより、今からでも楽しい思い出を作ったほうがずっと有意義だわっ。
ほら、親父さんも泣いてないで!」
ねこ娘に急かされるまま、父を肩に乗せてアパートを出る。
手を引かれながら、(いや、本当に楽しかったんだけど)と鬼太郎は困ってしまったのだが。
足早に街に向かうねこ娘の気持ちがくすぐったかったので、水を差すことはせず。素直に父同伴のデートと洒落込んだ。
「よしよし、寝たな」
安堵した男の声に嫌な予感がして、赤子は眠ろうとしていた意識を浮上させた。
まだ言葉をつかめていない赤子の意識はぼんやりとしていて、男の言葉を正確に理解できたわけではない。だが、その言葉は自分にとって忌まわしいものだと、経験で知っていた。
「そーっと、そーっと……」
男がいつものように足で襖を開け、赤子を布団へと下ろした瞬間、赤子は重い瞼をカッとこじ開け、男が自分を腕から下ろそうとしているのを認識して、大声で泣き叫んだ。
「わーっ!!? 起きやがった! 勘弁してくれよ、もう何時間抱えていると……」
「なんじゃ、情けないのう。わしの体が五体満足であれば、半日どころか何日でも、やや子を抱えて離さんものを」
「か、か、え、て、か、ら、言え! 赤ん坊ってのは意外と重いんだよっ。
ああもう、わかった、わかったから」
ふくふくと小さな紅葉の指で袖を掴んで、丸い頬を真っ赤にして泣きじゃくる赤子に根負けして、男は赤子を抱え直した。
途端に泣き止んでまたスゥスゥ寝息を立て始めた赤子に苦笑する。壁際に座り込んで、男は赤子が西陽にむずがるのに眉を顰めた。
「悪い、カーテン閉めてくれるか?」
「やれやれ、目玉使いが荒いのぉ」
目玉に胴体と手足が生えただけの形で窓まで行きカーテンを閉めるのは一苦労だろうが、我が子のためにしてやれることがあるのは嬉しいようで、目玉おやじは弾んだ足取りでカーテンを引っ張りに行った。
その間、男は指で赤子の片方だけの目蓋を覆ってやっていた。目蓋を刺す光が和らぎ、赤子は再び寝息を立て始めた。
夜に溶けゆく暖かな陽射しが頬を撫で、力強い腕にしっかりと抱えられながら、紫煙の染み込んだシャツを握る。
それが己の生涯で最も心安らぐひとときだとは露知らず、赤子はウトウトと穏やかな眠りに微睡んだ。