向日葵

 もう二度と会えないと思ったら、自分を抑えることなどできなかった。  きっともう会えない。帰ってくれない。だってウォルターには、妹としか思われてない。二度と会えない。こんなに会いたいのに。  脆弱な自分の体が憎たらしかった。こんなもの要らない。いじめられるのが怖くて、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいた自分が憎らしい。過去を変えられるならなんでもすると思った。  だって会いたい。会えない私は要らない。だから後悔なんてしない。  後悔すらできなくなるとは思わなかったらしいなと、リン・ウェンライトは冷静にひとりごちた。   *  *  *  後悔はしていない。それは確かだったが、ニュアンスが全く違った。自分が自分になったことに、後悔も何もない。思い出は感情を伴わない情報と化し、願望は熱を失い行き場をなくした。後悔などできるはずがない。  私は誰だ。リン・ウェンライト。それは誰だ? 壁一面に貼り付けた写真が問いかける。お前は誰だ。リンもまた問いかけた。  これは誰だ? 写真の中で笑っている少年。ウォルター・フェン。リンが好きだった少年。かつてのリンが、自分を失ってまで追いかけようとした、大切な友人。  リンは写真をなぞった。会ってみたい。そう思った。   *  *  *  ランディ・オニールが死んだ。  リンはもう一度自分に言い聞かせた。ランディ・オニールが死んだ。  ランディが死んだ。リンの大切な友人だったランディが死んだ。ランディが、死んだのだ。  衝撃はなかった。そのことが逆にリンを打ちのめした。  ランディが死んだ。再会することなく、変わってしまったリンを知らないまま、ランディ・オニールは死んでしまった。それがどうしても悲しめなかった。  当たり前だ。名前だけ知っている知人が死んだところで、どうしてそれを悲しめるだろう。名前だけ知ってる知人。名前と、写真の中の笑顔だけ知ってる知人。それしか知らない友人。  会いたかった。会ってみたい、そう願うだけで、会うのが怖かった。変わってしまった自分を知られるのが恐ろしかった。そんなつまらない躊躇で二の足を踏んでる内に、ランディは死んでしまった。  遺体安置所を訪れた自分が滑稽だった。棺を見て、そこに刻まれた名前を見て、それで一体何が変わるのか。  何も変わらない。ランディの死も、それを悼めない自分も、もう変わることはない。  涙がこぼれることも、表情が歪むこともなかった。ただ義務だと思った。ランディの棺を目指し、まっすぐに歩く。その途中で顔に傷のある男とすれ違った。  ウォルター。  すれ違った彼の横顔に涙はなかった。   *  *  *  お前は何も変わっていないとウォルターに言われた。その言葉は空々しく胸に響いた。この男は何も知らない。ウォルターがリンを通して懐かしんでいる『リン』は今のリンに繋がっていない。  変わってしまったのはランディだけ。そんなの嘘だ。ウォルターも変わってしまった。再会したウォルターから笑顔は失われていた。ランディの死がウォルターから笑顔を奪ってしまった。写真の中の笑顔はどこにもない。  何もかもが失われてしまった。私はもう戻れないところにいる。そのことに後悔はない。  この道を選ばなければ会えなかった。会いたかった。だからいい。後悔していない。いつの間にかニュアンスは変わっていた。  どうして好きになってしまったのか。会いたかったのは過去への希求、ただそれだけのはずだったのに。  いつの間にか、ウォルターに笑ってほしいと思っている自分に気づく。知らないはずのウォルターの笑顔。それを知っているような気がしている。優しい、頼もしい笑み。忘れてしまったはずなのに、知っている気がする。  それは錯覚だ。まやかしだ。写真の中の笑顔を重ねているだけだ。ウォルターが『リン』を懐かしむのも錯覚なんだ。いっそそう言ってやりたい。けど知られたくない。曖昧な言葉でごまかしたまま時は過ぎる。こんな女々しい自分など知らなかった。  ああ、これも初恋と呼ぶのだろうか。学習した過去をなぞっただけの錯覚ではないと、誰に言えるだろう。自分の感情が誰のものかなど。  あの頃のリンが何を思い、何を感じていたのか、それはもう永遠にわからないのに。   *  *  *  うわごとでささやかれた言葉に、リンは激昂した。俺は、結構似合ってると思うぞ。眼鏡なんて知らない。そんな過去は知らない。  リンの知らない『リン』をウォルターは覚えてる。その『リン』にウォルターが言う。気にするなよ。俺は、結構似合ってると思うぞ。それはリンじゃない。今のリンではない。私じゃない。  激昂して掴みかかった。止めるコリンズを振り払い、血塗れになったウォルターを揺さぶる。死ぬなど許さんぞ。そう怒鳴る。  ウォルターが見ているのはリンじゃない。過去の自分なんて知らない。そんなのものは要らない。それは私じゃない。目を開けろ。私を見ろ、ウォルター。  そう……怒鳴るなよ。ウォルターがつぶやいた。全く、無茶を言う上官だ。そう笑って、こっちを見た。  初めて見る笑顔だった。   *  *  *  眼鏡をかけてみた。鏡の中の自分を見る。  似合うかどうかなどわからない。眼鏡などリンはかけたことがなかったが、昔の、視力回復処置を受ける前の『リン』は愛用していたらしい。  似合ってる。そう言われたことがあっただろうか。日記にそんな記述を見た覚えはない。忘れてしまっただけか、それとも結局言われなかったのか。  どっちもありそうな気がした。鏡を見る。眼鏡をかけた自分がいる。  似合うと、言ってくれるだろうか。  昔の自分と今の自分が、少し繋がった気がした。   *  *  *  ウォルターに知られてしまった。  思ったよりも衝撃はなかった。嘆息してあきらめ、すべてをぶちまけた。自分が誰なのかわからないと。  壁の写真に写っている少女は誰だ? この感情は誰のものだ? 学習で得られたものではないと誰が言い切れる? 明日になれば消える錯覚などではないと、誰が。  手渡された絵本に見覚えはなかった。つたない手書きの絵本。黒い双頭の犬がバスケットをくわえている。バスケットの中には白い猫と首輪が一つ。  見覚えはない。こんな絵本は知らない。なのに涙が止まらなくなった。  何も変わっていないさ。ウォルターが微笑む。優しい笑顔。初めて見る表情。  こんな顔は知らない。あれから笑顔を浮かべてくれるようになったけど、こんな優しく、力強い笑みは知らない。  隙のない所作で壁際に追いつめられ、眼鏡を取られる。  眼鏡、よく似合っている。俺のために? 否定は言葉にならなかった。  優しい声。力強い目。何も言えなくなる。  理解も自己分析も必要ない。ウォルターが囁く。今を心に刻むだけでいい。  ウォルターの顔が近づく。世界で一番近い距離。近くなる。触れあう距離。  自分から背に腕を回した。   *  *  *  暗闇の中言葉をなぞる。決して忘れないと、誰に言い切れるだろう。忘れても好きでいられると、誰が。  身を竦めれば、ウォルターは笑ったようだった。頬を伝う涙をぬぐわれる。泣き虫。優しいからかいに、また涙があふれた。  キスをされて、なめとられる。この記憶もいつかは失ってしまうのか。忘れたくないのに。こんなに忘れたくないのに。縋りつけば抱擁が返ってきた。忘れたくない。  腕の中、ウォルターの顔を見上げる。優しい、力強い笑み。見覚えがないはずのそれを、どこかで見た覚えがある。すぐに思い出す。壁の写真。  さっき、ウォルターは何と言ったか。与えられた記憶はいずれ消える。壁の写真が微笑んでいる。だが、自ら掴み取った記憶は。  目の前でウォルターが微笑む。写真の笑顔が実像を結ぶ。過去と今が繋がる。  ウォルターがリンの脚を持ち上げる。見下ろす眼差しが許可を求めている。羞恥が肌を染めた。  ウォルターに抱かれようとしている自分。体を求められている。また、涙がこぼれた。  これでいいと思った。魂の所在なんて知らない。精神の同一性なんてわからない。  それでもこの体は、リン・ウェンライトのものだ。ウォルターが求めてくれるなら、これからも、求めてくれるなら、それだけは変わらない。変わりようがない。  優しい笑顔に手を伸ばし、リンは自分からキスをした。 「私を……見て」  忘れないで。  消えたはずの少女が、リンの唇を借りて睦言を唱えた。