母は砂漠を越えて
母のことは、本当のことを言うのなら、あまり覚えていない。
とても美しい人だったことは覚えている。わたしは母に似ていると言われるけれど、実際顔立ちはよく似ているのだろうけど、母の美しさは外見のそれだけではなかった。
立ち振る舞いの一つ一つ。浮かべる表情の気高さ。瞳の奥からこぼれる、深く透き通った青い光。色のない、けれど人を輝かせる何かが、母の美貌を際だたせていた。
あの美しさはわたしにはない。それを残念に思ったことはなかった。あの美しさはどこか恐ろしいものだと、子ども心に悟っていた。
母自身は恐ろしい人ではなかったし、優しくされた記憶はおぼろげながら、確かにわたしの中にある。けれど。
母は時折、ひとりで砂漠を見つめていた。
* * *
金色の花のようだった。風に揺れるままに、乱れた髪を直そうともせず、ただじっと同じ景色を見ていた。
声をかけてはいけない。その後ろ姿だけでそう思えた。とても美しい後ろ姿。まっすぐな背筋は微動だにせず、髪だけが風に揺れていた。
幼い自分はその背中から目を離せず、けれど次第に恐ろしくなって、決まって声をかけたのだ。
いや、ただ声を出したかっただけだ。母の後ろ姿に見惚れ、世界から音が消えたのではないかと恐れた。
(おかあさま)
そう呟くと、母はふり向き、どうしたの、と優しく声をかけてくれた。
けれど、一度だけ。
(あの砂漠の向こうに、お前の兄さんがいるのよ)
砂漠を見つめる母は、そのまま遠くに行ってしまいそうな気がした。
* * *
危うい人だった。当時は言葉にすることができなかったけど、子どもながらにそれはわかっていた。遠くに行ってしまいそうで、怖かった。
そして事実、わたしが三歳になったとき、母はわたしたちの前から姿を消した。
(──…ナンナ)
握られた手に食い込んだ指は、固く強張っていた。
(わたし、行くわ)
どこへ? 不安に尋ねた声に、母の眼差しは揺るがなかった。
(迎えに行くのよ、お前の兄さんを。イード砂漠を越えて、イザークまで行ってくるわ)
あのとき、
(だいじょうぶ。兄さんを連れて、必ず帰ってくる。すぐに帰るから、心配しないでね。ナンナ)
母は、
(愛してるわ)
正気では、なかったのだろうか。
* * *
母は帰ってこなかった。幼いわたしは、母と同じように、母が消えた砂漠を見つめ、母が帰ってくるのを待ち続けた。
すぐってどれくらいだろう。一日目は長かった。二日目も。三日目は、気を利かせてくれたフィンとリーフさまといっしょに遠乗りに出かけて、すぐに過ぎた。
気がつけば十日が過ぎ、一月が過ぎ……一年が過ぎる頃には、砂漠を見つめることはほとんどなくなっていた。
それでも時折、砂漠を見てしまうのはやめられなかった。
あの砂漠を越えて、母は兄に会えただろうか。いつ帰ってくるだろう? 明日か、明後日か……一年後か。
いつか帰ってくる。きっと帰ってくる。兄を連れて、あの砂漠の向こうから、母が帰ってくる。
わかっていた。本当は、わかっていたのだ。
* * *
「あなたが……おにいさま……」
声が震えて、掠れた。
目の前の、見覚えのない男の人は、思い描いていた兄の姿とは違ったけれど、けど、なぜか、兄だと信じられた。瞳の奥の光が、母と同じだったからかもしれない。それが良いことかどうか、わたしにはわからなかったけれど。
思い描いていたわけではない。兄との再会を、待ち望んでいたわけではない。
だって、知っていたから。本当は、わかっていたから。顔も覚えていない兄と再会したって、それを喜び合うなんてできないと、本当は、知っていたから。
「お母さまは」
わかっていた。出逢ったばかりの兄が怪訝に眉をしかめる。
母上? どういうことだと尋ねる、その声だけで答えはわかる。
わかっていた。本当は、わかっていたのだ。
「わたしが三歳になったとき、お母さまはデルムッド兄さまを迎えに行くと言われてイザークへ旅立たれました。
でも、それきり帰っては来られなかった。わたしは、ずっと、待っていたのに……。」
言わないで。ああどうか言わないで。
「でも、母上は来られていないぞ!」
再会を祝うことなどできない。知っていたから。兄との再会は夢想の終わりだと。砂漠の果て、母が帰るのを待ち続けた。叶わぬ夢だと、本当は、知っていたから。
だから、どうか。
「イードは魔の砂漠だ。一人で行かれるなんて無茶だよ」
声が震えて、掠れた。
「ラケシス母さま……」
* * *
フィンをなじったことがある。どうして母を止めてくれなかったのかと。
フィンは大人になればわかると言った。まだわからない。いつかわかる日が来るのだろうか。母を止めなかったフィンの想いも、越えられるはずのない砂漠へ旅立った母の想いも。
あのとき、母は、狂っていたのだろうか? 遠くを見ている人だった。強く、美しい人だったけれど、どこか危ういところがあった。
あの砂漠の果てに、母は何を夢見たのだろう。幼い頃から何度も耳にした噂。母と、母の実兄エルトシャンさまの不義の噂。
あの砂漠の果てには。あのとき、母は。
ふり向いた母は、酷く、優しい顔をしていた。
(あの砂漠の向こうに、お前の兄さんたちがいるのよ)
* * *
……アレス。わたしは。