祈りは貴方の面影宿し

 誰もいない部屋。静けさしかない部屋。暖かな陽射しが柔らかく窓を縁取り、涼やかな風が澄んだ空気を連れてくる。きっと居心地の良い、けれどそれだけでしかない部屋。  書物と寝台に、机と椅子。他には何もない殺風景な部屋で、女神フリアエは祈りを捧げていた。  五年という長い、緩慢な日常を過ごすにはあまりに長い年月の中、退屈紛れに覚えた教典の言葉を繰り返す。  それは作業でしかない。喉に染み付いた言葉は既に頭を使わずとも勝手に零れ、何を思おうとも途切れることはない。どんなときでも、何があっても。  女神の責務として、今も止まぬ痛みが彼女を締めつけている。その痛みにも慣れた。  耐えるということも忘れ、フリアエは単調に祈り続ける。  その姿に聖性を見出す者もいる。何が起ころうと一心に祈りを捧げる女神を神々しいと感じ、それを支えにこの戦乱の世を生きる者も、確かにいる。  だが、彼女にとってそんなことはどうでも良いことだった。いや、彼女にとっては何もかもがどうでもいい。遠くから聞こえてくる自分への讃美も、時折気遣わしげにかけられる声も、過去も未来も、自分を襲った悲劇も、これから先も続くだろう戦も、何もかもがどうでもいい。  だが時折、聞こえてくる噂がある。直接耳にしたわけではない。扉の向こう側、廊下の奥、窓の下の庭……聞こえてくる噂話に耳を澄ませば、かなりの頻度でその話を聞くことが出来た。  遠く、とても遠く、連合軍と帝国軍の最前線で戦う戦士の話。  その髪は漆黒。瞳は深い空の色。端整な容貌と卑しからぬ気品を感じさせながら、振る舞いは鬼人のそれ。剣一つで千の骸の山を築き、血に塗れた腕で陰鬱に笑う。  その男は亡国の王子。帝国の有する黒竜に滅ぼされた国の、その男は女神の兄。  目蓋に映るのは、遠い昔。  城の中庭で見上げた青い空。  聞こえてくる美しい歌の調べ。  その向こうで待つ、優しく笑う兄の姿。  祈りが終わった。為すべきことがなくなり、また退屈な時間がやって来る。  秘やかな溜め息をつけば、鉄の匂いを孕んだ風が教典を捲った。  何もかもがどうでも良いこと。世を守る女神の任に比べれば、何もかもが塵芥と消え失せる。  ひとりの女の幸福も、孤独も、その心も。すべてが無いものとされる。  ここにいるのは女神。人などいない。  私は女神。私はいない。  フリアエは窓から外を眺めた。  鉄と混ざった血の匂い。  聞こえてくる剣の音。  城の外でうねる土埃と鋼の煌めき。  赤黒い大地。  彼処に、彼の人はいるだろうか。  他にすることが何もなくて、女神フリアエは祈りを捧げた。