幼子はを乞い

 少女は暗い谷間で独り、膝を抱えて待ち続けていた。  思い出すのは母の声。彼女を此処へと連れて来た。 『此処にいるのよ。後を追ってきちゃ駄目。いつまでも、此処にいなさい。いいわね?』  目を吊り上げて、そう言った。その言葉を守って、彼女は此処にいる。  いつまでも、いつまでも。見送った母の後ろ姿が振り返ることなく消えていっても、雪が降り防ぎようのない寒さが身を凍えさせても、少女は待ち続けた。  ただの一言も、母は「帰ってくる」とは言わなかったのに。 「お母さん」  ぽつり、と少女は呟いた。もちろんそれを口にしても、誰も彼女の声を聞くものはいなかったのだけれど。  頭の中で、少女は続けた。 (ずっと此処にいたら、お母さん、愛してくれる?)  生まれたときから、少女はずっと母に疎まれ続けた。それは少女の生まれ持った赤い瞳が原因だったのか、それとも何か他に原因があったのか。  わからないが、少女はずっと母に憎まれ、疎まれ、蔑まれながら生きてきた。瞳の色だけが違う双子の兄は、ずっと母に愛され続けてきたというのに。  憎まれて、憎まれて、それでも少女は母を愛した。兄のように愛されることを望み、愛される日を待ち続けた。  そうしていつからか、少女は疑うことを忘れた。母の言うことなら何でも信じ、母に命じられたことなら何でもした。  何もしても、母は彼女を愛してはくれなかったけれど、それでも、少女は母を愛し続けた。  そして、ついに今日、母は少女に二人っきりでいっしょに出かけようと言った。少女は喜び勇んで母に付いて行き……  そして、この谷底に捨てられた。  どうしてこうなってしまったのか、少女にはわからなかった。自分と兄に何の違いがあったのか。どうして自分は愛されなかったのか。  だが、疑うことを忘れた少女は、暗い谷底で母の言葉を守り、母を待ち続ける。  いつまでもいつまでも。雪が彼女の身体を覆い、意識が遠く霞んで、鈍色の空が酷く近くに感じられても、最後に残った意識の一滴で、少女は母を想い続けた。 (愛して、愛して、お母さん。此処にいるから。ずっといるから。お母さん……  憎まないで。わたし、死ぬから。お願い、憎まないで……お母さん……愛して) 『愛して欲しいか?』  雷鳴のように低い声が、少女の耳元に囁いた。  その声は不吉で、禍々しく、威圧的だったが、少女に感じられたのは一つだけだった。 (愛して、くれる?)  もはや口を動かすことはできず、少女は胸の内で問いかけた。  それだけで《声》には通じたのか、囁きが返ってくる。 『ああ、愛してやろう。慰めてやろう。抱きしめてやろう。温もりを与えてやろう。  それを望むなら、我の手を取れ。我の命ずるままに動け。さすれば、お前の望むすべてを与えてやろう』  それがまともな提案ではないことは、本来、年の割に利口だった少女にならわかったはずだった。  しかし、母の虐待を受けて育ち、死に瀕した彼女には、ただその《声》が自分の望むものを与えてくれるということしかわからなかった…… 《代償》に何を支払う破目になるのか、考えることもできずに。 (言う通りにしたら、お母さん、わたしを愛してくれる? 抱きしめてくれる? 歌をうたってくれる? いっしょに寝てくれる?  愛して、くれるの?) 『ああ、もちろんだとも。《我》に愛されるものは、この世のすべてに愛される。  さあ、我が手を取るがいい、幼子よ。さすれば……』  満面の笑みを浮かべ、少女は宙に向かい手を伸ばした。  遠い遠い、すぐ傍の空。触れることのできないはずのないそれに手を伸ばし、何かに手を掴まれるのを感じた瞬間、光は満ち。  幼子は愛を乞い悪を喚び。  世界の終わりは、こうして幕を開けた。