美しい人だ。セエレは初めて見たが、そう思った。
血の色をしたドレスをまとい、薄茶の髪を豪奢な髪飾りで結い上げ、カイムと同じ青色の目を見開いている、血の気の薄い青白い頬。
見知らぬ人間たちに緊張した様子は、セエレの後ろにいた人物によって解かれた。
「無事であったか、女神」
「神官長」
無表情だった女神の顔が、わずかに綻ぶ。人形じみた顔に生気が灯ったのに安堵して、セエレは女神が囚われていた部屋を見渡した。
がらんどう。そんな言葉が思い浮かんだ。広間と言っても差し支えない広大な空間に、斜めに傾いだ紅く透ける柱と、簡素な寝台がぽつんと置かれている。寝台にはナイフを突き刺した歪な人形が散乱し、部屋の無機質な印象を不気味なものに変えていた。
つと、セエレは視線を感じた。ヴェルドレに安堵していたはずの女神が、顔を強ばらせている。
「あなたは……」
女神の怯えた眼差しに、セエレは戸惑った。何故、そんな目で自分を見るのか。
セエレが疑問を口にする前に、隣にいたレオナールが前に立ち、軽く一礼した。
「初めまして、女神よ。わたくしはレオナール。この子はセエレ。
神官長と共に、あなたを助けに参りました」
レオナールの名乗りに、セエレは得心した。初対面の人間がいるので怖かったのだろう。そんな風に考えた。
だが。
「なんだ、兄さんじゃないの?」
冷えた、甘い、幼子の声が、がらんどうの部屋に響き渡った。
* * *
突如として響いた甘い声音に、レオナールは戦慄した。
女神の他に誰もいなかったはずの部屋に、甘い香りが漂っている。紅い花の匂い。血生臭い腐臭を花の香りで隠した、芳しく醜悪な匂い。
「あーあ、待ってたのに。兄さんが来るのを待ってたのに。
来たのはハゲかよ。クソが」
幼い声だった。あどけないと言ってもいい、可愛らしい子どもの声。
無垢な声が下卑た言葉を紡ぐたびに、醜悪な匂いが密度を増す。圧迫感に喉を塞がれ、レオナールは呻いた。
契約の代償に盲いた眼が、光を映す。情報と言い換えるべきか。フェアリーとの契約で授かった心眼。目が見えていればわかったはずの、否、それ以上の情報が、眼球に刻まれた紋章を通して脳裏に浮かぶ。
声の主は、少女だった。齢は十にも届いていないだろう。鮮血の色をしたスカートの上に、乾いた血の色をした赤黒いローブを羽織っている。目は毒々しいまでに赤く、頬にかかる辺りで切り揃えられた淡い金髪と瑞々しい柔肌は、却ってその禍々しさを強めていた。
少女は柱の陰から身を乗り出し、微笑んでいる。赤い目が爛々と輝き、忌まわしい匂いが力を増す。彼の愛する無垢な少年とは似ても似つかない、邪悪な気配。
だが、自分でも気づかないうちに、レオナールはその名を呟いていた。
「……セエレ?」
「マナ!」
歓声を上げたセエレが、双子の妹の名を叫び、少女に駆け寄る。レオナールの反応は、一瞬遅れた。
赤い目と性別を除けば、少女はセエレに瓜二つだった。だがそれとは別に、レオナールは少女に既視感を覚えていた。
──砂漠の神殿。神殿を警備する連合軍の兵士たちを一瞬で赤い目の狂信者に変えた、天使の教会の司教。
レオナールは叫んだ。
「いけません、セエレ! その子どもが司教です!!」
少女の指先から、雷が放たれた。
床からせり上がったゴーレムが、雷撃からセエレを庇う。直撃は免れたものの、魂を共有するゴーレムの受けた光と衝撃を味わい、セエレは床に転がった。
苦痛と混乱に呻きながら上体を起こし、双子の妹を見上げる。
「……マナ?」
マナは笑った。
「天使は笑わない。天使は起こしてはならない。
天使の名を呼んではならない」
雷のように低い、不気味な声だった。
* * *
床に転がったままのセエレに駆け寄り、レオナールはゴーレムと共に司教の前に立ち塞がった。だが、惨めに倒れ伏した兄の姿は、司教の眼中にないようだった。
野太い男の声で喉を鳴らしながら、司教は悠然と女神に近づいた。ヴェルドレが動きかけたが、司教の赤い目に気圧され、後ずさる。
司教はあどけない笑みを邪悪に歪ませ、少女の声で軽やかに歌った。
「ラララララ、ララ、ララララ……
その子ばっかり庇って、なんで私は守ってくれないんだよ。私を助けに来たんじゃないのかよ。役に立たない男どもめ」
「やめて……」
か細い声が聞こえたのは、奇跡に近かったろう。
生気の乏しかった顔に恐怖を滲ませ、女神は囁いた。司教が囁く。
「わたし、あなたの心が読めるの。愛されてるから、ね」
誇らしげに胸を張り、虫けらを嬲るように告げる。
「私は女なのに、普通の女なのに、どうして私だけ、こんな……ちぇっ、ちぇっ、クソが!」
「やめて!」
女神は叫び、蹲った。
誰も動けない。司教の強大な魔力と底知れない悪意に気圧されて、呆然と耳を澄ませる。礼拝に訪れた信徒のように。
「どいつもこいつも馬鹿ばっかり。役立たずばっかり。私痛いのに。こんなに苦しいのに。誰も助けてくれない。
封印がなんだってんだよ。私を助けろよ。ねぇ。どうして私だけ、こんな苦しまなきゃいけないの? みんな同じ目に遭えばいいのに!」
「やめて、ください。お願いしますから」
震える声で哀願する女神の姿に、ヴェルドレは我に返った。
震える女神を、信じられない思いで見下ろす。
「そんな……そんなことを考えていたのか!?
女神よ、連合軍の兵たちは、皆そなたを守るため、世界のために」
「うるっっせえんだよこのハゲ!」
罵声に身を縮こまらせたのは、ヴェルドレではなく女神だった。
震え、身を屈める女神に、司教は笑いながらまくし立てた。
「世界のためだあ? テメエが死にたくないだけだろうが!
そんなに世界を救いたいならまず自分が死ねよ! 役立たずの神官長様よお!?」
殴られでもしたかのような顔で、ヴェルドレは後ずさった。いや、本当に衝撃を受けたのは、弱々しい女神の声にだったのか。
「違う……違うわ、私、そんなこと考えてない。ここまでじゃない」
遠回しに、司教の言葉が本心を掠めていると、認める言葉。
勝鬨を上げるように司教が叫ぶ。
「憎い、憎いよ、クソ野郎! こんな世界滅びればいい!!」
「違う!」
耳を塞ぎ、女神は絶叫した。常の儚げな様子からは、想像も出来なかった姿。
弁明も出来ず、女神は縮こまっていた。耳を塞ぐ。世界中から逃れるように。
誰も何も言えず、近寄ることさえできず、嗚咽する女神を見つめていた。
扉の開く音がして、セエレはふり返り、頭上を見上げた。先ほど部屋を見渡したときには気づかなかったが、後方の壁に、バルコニーがある。
そのバルコニーから、荒い息のまま、血塗れの剣を拭うこともせずに、こちらを見下ろす影があった。
「カイム、こっち!」
セエレの言葉に、ゴーレムが手を伸ばす。カイムは躊躇わず、バルコニーから飛び降りた。
ゴーレムを足場に着地して、他には目もくれず妹に駆け寄る。
「兄さん……」
フリアエは──最早女神などではなく、ただの女に成り下がった娘は──縋るような目で兄を見つめた。
先ほどのやり取りが聞こえていたかどうか。カイムはフリアエを立ち上がらせ、背に庇った。ほんの一瞬、視線が交わる。この男には珍しい労わるような眼差しは、彼女の心を解すには十分だったろう。
しかし、甘い、芯から嬉しげな声を出したのは、フリアエではなかった。
「あ、兄さん……来てくれたんだ。嬉しい」
邪悪な含み笑いに、フリアエが身を強ばらせる。
先ほど内心を暴露されたときよりも、もっと強い恐怖が、彼女の表情を染め上げていた。
セエレと瓜二つの姿に戸惑いがなかったはずもないが、カイムが剣を構えて司教を睨めつける。
「私、あなたの心が読めるの。うふふふふ」
もう一度、同じ言葉を繰り返して、司教は赤いスカートを翻した。
「兄さんが来てくれた。嬉しい。
けど、怖い。本当の私を知ったら、兄さん、きっと私を軽蔑する。
そんなことになったら、私」
「やめて……お願い、やめてください!」
「いけません、女神!」
レオナールの制止は遅れ、セエレとヴェルドレは動けず、カイムは妹を警戒していなかった。
自らカイムの横をすり抜け、フリアエは司教に縋りついた。
「ラララララ、ララ」
軽やかにハミングしながら、司教はフリアエの頬に触れた。それだけでフリアエは動けなくなる。
カイムは憤ったが、妹を盾に取られ動けない。フリアエを覗き込み、毒酒を注ぐように司教が口ずさむ。
「汚いの。私汚いの。女神なんかじゃない。ただの女なの。諦めてるだけ。
ほしいの。本当はほしいの。男がほしいの。女神なんかやめたい。
誰か私を求めて。私を抱いて。男なら誰でも……ううん、誰でもいいわけない。
兄さんじゃないと嫌。私の初めてを、兄さんに奪ってほしいの」
カイムの表情が、驚愕に凍りついた。
いや。フリアエが呟く。
「兄さんがほしい。兄さんに抱いてほしい。
お願い、兄さん。鎧を脱いで、私を裸にして。兄さんの腕の中で、ただの女にして。ずっと好きだったの、兄さんのこと。
イウヴァルトなんてどうでもいいわ。兄さんがほしいの」
幼い少女から語られる生々しい劣情に、カイムの顔が歪んだ。
フリアエが首を振る。やめて。違う。
司教が高らかに告げる。
「だからお願い。私を抱きしめて。私を暖めて。
私を抱いて。お兄ちゃん」
「ごめんなさい!!」
フリアエの言葉に、すべての時が凍てついた。
「はい、女神失格」
司教はフリアエを突き飛ばした。人形のようにフリアエは倒れた。
だが、誰も彼女を助けない。悲劇の舞台を見る観客のように、呆然とフリアエを見つめる。
恐る恐る、怖々と、フリアエは身を起こした。しかし俯いたまま。顔を上げる勇気がない。兄の顔を見る勇気がない。
だが、一縷の期待を胸に、ゆっくりと、フリアエは顔を起こした。
「………」
フリアエは、笑おうとした。涙に濡れた、淡い青色の目。引きつれた笑みをこぼした、薄い桜色の唇。
兄に向かって、小首を傾げる。無邪気な王女だった頃、鏡の前で何度も練習したように。自分が最も美しく見える角度で、目尻に涙を溜めて、わがままをねだったときのように。
泣き出す寸前の、妹の、媚びた……情欲を湛えた眼差しに、カイムは息を呑み。
目を、逸らした。
「ぁ……」
フリアエの笑みがひび割れる。作り笑いが剥がれ落ち、涙が頬を伝う。
わかりきっていた結末。当然の破局。縋るものを探して、フリアエの視線が虚空を彷徨う。その視線が、一点で止まった。
天使の教会の司教が、ぬいぐるみを差し出していた。
歪なぬいぐるみ。その胸を突き刺すナイフ。
司教が小首を傾げる。
「どうする?」
一瞬の静寂。
フリアエは手を伸ばした。
誰かが制止の声を上げようとした。それは形にならず、ただの呼吸の音となって消え失せる。
刃の抜かれる音。
心の傷を見せつけるように、フリアエはナイフを胸に突き刺した。
* * *
時間が止まっていた。凍りついた空気。絶望は重く肩にのしかかり、胸元が焼けるように熱い。
フリアエは胸を押さえたまま。俯いたまま。顔を上げる勇気がない。耳鳴りがする。一瞬が永遠に引き延ばされる。
けれど時間は失われていく。息を一つこぼすたびに、体から熱が失われていく。
フリアエは、顔を上げた。ゆっくりと、ぎこちない動きで。彷徨う視線が、一点で止まった。
「………」
カイムは、フリアエを見ていた。
泣き出しそうな顔で。虚空に手を伸ばし、制止の声を上げようとした姿勢のまま、妹を見つめていた。
フリアエは、泣き笑いに顔を歪ませた。嬉しかったのか、悲しかったのか、自分でもわからぬままに。
何かの未練のように頬に貼りついていた涙が、そっとこぼれた。
「私を……」
掠れた息を吸う。
「……見ないで」
荒い息遣い。
崩れ落ちた妹を、カイムは抱き止めようとした。触れる寸前、フリアエはカイムの指先から逃れた。
宙に浮かび上がったフリアエの体が、傾いだ柱に磔になる。
花弁のように広がるドレス。目蓋を閉じた、安らかな横顔。それだけでわかる。フリアエはもう息をしていない。
笑い声を耳にして、カイムは横を向いた。
フリアエを指差していた司教が、両手を下ろし、嬉しそうな上目遣いで、カイムを笑った。
「天使は笑う?」
一瞬の激情。司教を両断しようと振り下ろした剣は、あっさりと避けられた。
けたたましく手を打ち鳴らしながら、司教が飛び跳ねる。
「鬼さん、こちら! 鬼さん、こちら!」
くるくると回り、虚空から花びらをばらまく。
回る赤い花。無邪気に笑う少女。磔にされた妹。
横薙ぎに剣を振るう。斬撃は花びらを散らしただけに終わった。人ならざる者の目で、司教が歌う。
「ララララ、ラララ、ララ、天使、ラ!」
煮えた頭のまま、剣に魔力を充填する。切先が火弾を帯びる。
激昂し赤く染まったカイムの視界に、小さな影が飛び込んだ。
「待ってよカイム! この子は、僕の」
それ以上は、言葉に出来なかった。
尻すぼみに口をつぐみ、俯いたセエレの目に、青白く光る床が映った。
燃え立つ魔法陣の中心。紅色に透ける柱に手を置き、司教が呪文を唱える。
「天使を語ってはならない。
天使を描いてはならない。
天使を書いてはならない。
天使を彫ってはならない。
天使を歌ってはならない。
天使の名を呼んではならない」
光があふれ、司教と、フリアエの亡骸が姿を消した。
歯軋りをしたカイムが、迷わず魔法陣に飛び込もうとする。
『馬鹿者!! 激情に走るな、冷静になれ! 罠だ!!』
赤き竜の“声”が響いた。空中要塞を覆っていた結界が、司教の退場と共に薄れている。
『最終封印が解かれたのだな? 一刻も早く出てこい!
卵が生まれる、世界が本当に終わるぞ!』
『…………!!』
カイムの思念が放たれた。言葉にならない“声”。声にならない悲憤。契約の代償を、今存分に彼は味わっていた。
言葉にならなかった声。伝えられなかった想い。救えなかった、妹。
レオナールが口を開く。
「カイム。この魔法陣の先は、恐らく敵の本拠地。無策で行くには、あまりに……」
胸ぐらをつかまれ、レオナールは口を噤んだ。煮えたぎるカイムの眼差しが、目蓋を貫いて盲いた目を焦がす。
床に這い蹲ったまま、セエレが泣きじゃくり始めた。地響きが轟き、要塞が震動を始める。
「ここはもう……用済みというわけか」
棒立ちになっていたヴェルドレが、虚ろに呟いた。
魔法陣の光が弱まり、見る間に薄れていく。風に吹き消される蝋燭のように。
「最終封印は……女神が殺されると継承される」
ヴェルドレは、独り言にもならない言葉を囁いた。
「オシルシは、封印の適合者となる乙女に現れる目印。それのみでは封印とはならん。
三つの封印は、本来、女神が代替わりする間の予備なのだ。だが、女神が死ぬたびに封印が解けては、世界を守る楔としてあまりに脆弱。
だから、他者の手で女神が殺されると、新たなオシルシに封印も継承されるよう、仕掛けを」
「その仕掛けは、自死では作動しないのですね」
レオナールの指摘に、ヴェルドレの肩が跳ねた。カイムの腕からは、既に力が抜けている。
「あなたが女神の傍を離れなかったのは、いざというときは女神を殺し、最終封印を守るためですか」
糾弾に、ヴェルドレは恥じ入るように俯いた。守れなかったのを悔やんでいるのか、殺せなかったのを悔やんでいるのか、余人にはわからない。
消え行く魔法陣に、結局飛び込めず、カイムはレオナールを放した。苛立ちに任せて剣を床に突き刺し、膝をついて目の前の床を殴る。
絶叫は喉で燻り、こぼれることはなかった。歯を食いしばる。乾いた目から涙はこぼれず、代わりに思念の奔流がその場に満ちた。怒り。憎悪。
何に対する怒りか。妹を死に追いやった司教か、嫉妬に狂った親友か、身勝手に死んだ妹か、妹を女神にした世界か、妹を守れなかった自分か、そのすべてか。
声にならない、純粋な怒り。世を焼き尽くさんばかりの憤怒の後、訪れたのは、重々しいまでの悲哀だった。
幼かった頃の妹の姿が、目蓋に浮かぶ。上目遣いに甘える仕草。イウヴァルトといっしょにカイムを待つ、幸せそうな笑顔。再会してからの、虚ろな眼差し。最後に見せた、縋りつくような、
──目を逸らした自分。
虚ろな、すすり泣きのような思念が、がらんどうの部屋に響く。
冷たい床に頭を垂れ、カイムは呻いた。涙の兆しはなく、ただ空洞のような虚無が、胃の腑から背筋に広がっていく。
『しっかりしろ、馬鹿者!』
赤き竜の“声”が、絶望に喘ぐ人間たちを叱咤した。
要塞の崩壊は絶え間なく進み、ひび割れた天井から瓦礫がこぼれていた。
これ以上、立ち止まっている余裕はない。それを思い出させるように、赤き竜が“声”を重ねる。
『そのまま嘆いて死ぬつもりか? 早く出てこい!
女神の死を無駄にするな!』
その言葉に、レオナールが動いた。セエレを立ち上がらせ、ヴェルドレを促す。ゴーレムは通路を行くには大きすぎるため、石に潜らせた。
だが、蹲ったまま顔を上げないでいるカイムに、かける言葉が見当たらない。
止め処なく流れるカイムの思念は、過去の幸せだった頃の景色と、フリアエの末期の姿に繰り返し苛まれている。苦痛に厭き、人を怨み、世界を憎み、兄に縋り、そして拒まれた。妹を殺した世界。妹が憎んだ世界。
口では妹を守ると言いながら、殺戮の快楽に酔い、その果てに声を失い、妹と言葉を重ねるのを怠り、結局、目の前で妹を失った自分。
竜が吠えた。
『いい加減にしろ!!
それだけ怨んで厭うた世界を、誰のために女神が守っていたと思っておる!?』
叱咤ばかりではない。悲嘆と、憤りと、労わりを含んだ“声”。
『おぬしの妹が耐えてきたことを、無駄にするな……』
カイムの思念が、過去の情景を結んだ。
──縋りつくような潤んだ眼差しで、兄の無事を祈っていた、フリアエの姿。
「…………」
カイムは立ち上がった。剣を手に、赤く透ける柱を見遣る。
そこにはもう、妹の亡骸はない。だが、目蓋に焼きついた最期の顔を胸に刻み、カイムは踵を返した。仲間たちが続く。
こぼれる思念は悲しみと痛みに満ちていたが、最後まで絶望に抗う決意をみなぎらせていた。