Seere
「ねえ、アリオーシュはどうして二回も契約できたのかな?」
可愛らしいセエレの問いに、レオナールは慌てて我に返った。
「二回、とは?」
「だってそうでしょう? アリオーシュはサラマンダーともウンディーネとも契約してるじゃない。どうして二人いっぺんに契約できたのかな?」
今更だがもっともな疑問に、レオナールも首を傾げた。
契約は人間と魔物が心臓を交換することで成立する。心臓が文字通りのそれを指すのか、それとも俗に言う魂を指すのかはわからないが、どちらにせよ複数の魔物と同時に契約するなど不可能なはず……なのだが、アリオーシュは現に二体の精霊と契約を交わしていた。本人の様子から何となく納得してしまっていたが、確かに不可解ではある。
「さあ……もしかしたら、サラマンダーとウンディーネは二体の魔物ではなく、二体一組で一対の魔物なのかもしれませんね」
アリオーシュの操るサラマンダーの爆炎が一瞬でウンディーネの瀑布に変わったのを思い出し、レオナールは自身の見解を述べた。
中々自信のある答えだったのだが、セエレはお気に召さなかったようだ。「えー」と可愛らしく声を膨らませ、レオナール膝をぽかぽか殴ってくる。
「サラマンダーとウンディーネって全然似てないよ。あの二人は二人で、絶対一人じゃないよ!」
しがみついて抗議して来るセエレに「そうですね」と謝りながら、レオナールは腰の位置を直した。
セエレは否定するが、サラマンダーとウンディーネは良く似ている。厳格で熱くたぎりながらも静謐な炎と、清冽で冷たく凍りつきながらも激しい水。対称的な力と姿は完璧な一対の双子を思わせ、木霊のように響き重なる声は同じ精神を共有しているように見えた。
だが異なる姿にばかり気を取られたセエレは納得がいかず、しつこく推理を続けている。経験豊かな老将軍がやれば様になったのだろうが、六歳のセエレでは微笑ましいものにしかならない。威厳たっぷりに考え込むのではなく、ぶつぶつとああでもないこうでもないと呟いているのでは尚更だ。
レオナールは巧妙に前を隠しながらセエレがあれこれと頭を悩ませるのを眺めていたが、「もしかしてエルフには心臓が二つあるのかなあ」という突飛な意見には流石に吹き出しそうになった。そしてすぐに凍りついた。
アリオーシュの契約。二体の魔物。必要なのは二つの心臓。契約の代償は子宮。アリオーシュの言葉。私の赤ちゃん。殺されて食われる子ども。腹の中の子ども。私の赤ちゃん。代償は子宮。
まさか、そんな。
「……レオナール? どうかしたの?」
レオナールの足が止まったのを訝しみ、セエレは心配そうに手を引いた。「なんでもありません」とすぐに囁き、レオナールは歩き始める。
「大丈夫。なんでもありませんよ、セエレ」
そう、なんでもない。ただの考えすぎだ。セエレの思いつきを真に受けた、馬鹿げた妄想だ。アリオーシュが二体の精霊との契約を成し得たのは、心臓を二つ持っていたからではないか、などと。
そう言い聞かせながら、レオナールはその考えを捨て去ることが出来ないでいた。
かつてアリオーシュは平凡なエルフの女であり、我が子を愛する優しい母であった。その子どもを目の前で殺されて彼女は狂い、忌まわしき食人鬼となり、二体の精霊との契約に至ったのだ。
なぜ、アリオーシュは二体の精霊と契約できたのか。
もし。もしもそのとき、アリオーシュが身籠もっていたのなら。
それが答えに、ならないだろうか。
Arioch
牢獄で独り、アリオーシュは微笑んでいた。
猿ぐつわを噛まされ、全身は拘束されて身じろぎさえできない。だが何を不満に思うことがあるだろう? ここには我が子がいるのだ。
アリオーシュは微笑み、腹を撫でようとしたが、後ろ手に縛られていたせいでそれは叶わなかった。少し苛立ったが、とくん、と腹を蹴られる感覚に機嫌を好くした。
あら、慰めてくれるの? ありがとう、私の赤ちゃん。優しい子ね。大丈夫よ。もうあなたを産んだりしない。いつも一緒よ。私の赤ちゃん。ああお腹が減ったわ。何か食べなきゃ。この子が飢えてしまう。何が食べたい? 美味しいもの? そうね、あれがいいわ。あれは美味しかった。ああ行かなくちゃ。あの子が待っているのよ。どうして私は縛られているの? こんな所で休んでいる暇はないわ。あの子が待っているのよ。大丈夫。今行きますからね。泣かないのよ、私の赤ちゃん。今、食べてあげるから。
アリオーシュは哄笑を上げた。美しいが耳障りな声が牢獄に響く。猿ぐつわのせいでくぐもったものにしかならなかったが、彼女が笑っているのを知らせるには充分だった。美しくも禍々しい、軽やかで楽しげに歌う笑い声。
その歌を遮るように、爆音が轟いた。
笑み崩れたまま、アリオーシュは石畳に叩きつけられた。
壁が崩れ、炎が牢獄に雪崩れ込む。激痛に悶えたまま、アリオーシュは微笑んだ。
大丈夫よ、可愛い子。お母さんが守るわ。あなたは何も心配しなくて良いの。お母さんの中で、じっとしててね。大丈夫よ、私が守るから。
炎が牢獄を炙り、燃え盛る熱がアリオーシュの髪と肌を焦がした。アリオーシュは体を動かそうとしたが、拘束具に阻まれて叶わなかった。
苛立ち、拘束具を外そうと必死にもがく。石畳に叩きつけられた体の中で、折れた骨が内臓を抉った。子宮が痙攣し、血を吐き出そうともがく。
熱い。とても熱いわ。動けない。死んでしまう。私の子が死んでしまう。駄目よ。私は死ぬわけにはいかないの。あの子が待っているのよ。死ぬわけにはいかない。許さないわ。私はこの子を守るの。嫌。死んでしまう。私の赤ちゃんが死んでしまう。嫌よ。泣かないで。死なないで。嫌。嫌。嫌ぁあ!!
アリオーシュは絶叫した。声の代わりに血が流れる。意識が遠のく。
死ぬわけにはいかない。ああ、早く。泣いている。助けなきゃ。ああ、誰か、誰か助けて。この子を助けて。やっと、やっと取り戻したのに。私の、可愛い、美味しい赤ちゃん……。
『そこの女』『死ぬにはまだ早いぞ』
どこからか声が響いた。反響して遠くから聞こえる。男の声。女の声。
アリオーシュは目を開いた。
霞む視界に、炎が舞っていた。赤い炎。きれい。アリオーシュは微笑んだ。
炎に寄り添うように、淡く光る水が宙を踊る。青い水。きれい。アリオーシュは笑った。
炎が舞う。水が踊る。アリオーシュは目の前の炎と水に夢中になった。
『立て』『女』
遠くから声が聞こえた。だぁれ?誰でもいいわ。これを外して頂戴。私はあの子のとこにいかなくちゃいけないの。
唇からあふれた赤い血が、猿ぐつわを伝い床に落ちる。赤。赤い、赤い血の海。
いいえ、嘘。あれは夢よ。だってあの子はここにいる。ここにいるの。だから大丈夫よ、私の赤ちゃん。私が守るから。
『女。生きたくないのか』『そのまま死ぬつもりか』
死ぬ? 死ぬわけにはいかないわ。この子まで死んでしまう。
アリオーシュは立ち上がろうとしたが、それは叶わなかった。動けない。死んでしまう。
泣きだしそうになった指先に、何かが触れた。赤い炎と青い水。熱く、冷たいはずのそれは、何故か心地好く感じられた。
腹の中で、とくん、と音が鳴る。
『そうだ』『我々と来い』
一際強い光が彼女を包み込む。赤ちゃん、赤ちゃん、ここにいるの? アリオーシュは微笑んだ。
炎が歌い、水がさえずる。優しい光、心地好い熱。それだけでアリオーシュには充分だった。
青い水が拘束具を断ち切り、赤い炎が周囲の炎を飲み込む。アリオーシュは陶然と微笑み、自由になった両手で我が子の眠る腹を撫でた。
炎と水から、とくん、と音が鳴った。
Leonard
妄想だ。わかっている。だがもしも、あらゆる危機と苦難に耐え抜いて、アリオーシュがサラマンダーと契約を交わしたとき、まだ、腹の子が生きていたのなら。
そのとき。アリオーシュは契約の代償として我が子の眠る子宮を捧げ、腹の中の子どももまた、生き延びるために自分の眠る子宮を捧げ、そして、永遠に。
『殺された』『彼女の子どもは殺された』
『彼女の見ているその前で』『血の海に捨てられた』
『この先子どもを持つこともない』『再び母になることもない』
『我々との契約に』『子宮を使ってしまったから』
『よって永遠に続く恐怖』『よって永遠に続く混乱』
『『よって永遠に続く狂気と孤独』』
永遠に、腹の中で、ウンディーネに守られ、子宮がない故に成長することも、産まれることもない子どもが、
永遠に。
馬鹿馬鹿しい。これは妄想だ。ただの思いつきの、無理のある仮説に過ぎない。
そうとも。帝国兵に追われ極限の飢餓を体験し、拘束具で縛り上げられて幾日も放置され、挙げ句死に瀕してまで流産せずにいられるわけがない。
そもそも契約には心の闇が必要となる。いくらアリオーシュが契約者の中でも強烈な狂気を抱えているからといって、胎児と母体がある意味一心同体だからといって、まさか、そんな、馬鹿なことがあるはずがないのだ。
そう思う一方で、レオナールはだが、と囁く自分の声を無視することができなかった。
だが、それならば何故、アリオーシュは帝国兵に監禁されていたのだ? エルフであるアリオーシュを帝国軍が生かしておく理由はない。
だが、もしアリオーシュが妊娠していたのなら。反魔の力を持ち、海の神殿の鍵ともなるエルフの血を、帝国軍は少しでも多く欲していたはずだ。
アリオーシュを捕らえ、血染めの鎧を作ろうとしたとき、帝国軍がアリオーシュの妊娠に気づいたのなら。子どもが産まれるまで、待とうとしたのではないか。その方が、より多くの血を採れるから。
心配げに自分を見上げるセエレに、レオナールは微笑みかけようとした。
馬鹿げた妄想だ。わかっている。だからなんでもない。何も気に病む必要はない。
「大丈夫ですよ、セエレ」
その言葉を発した瞬間。耳元に、美しい声が甦った。
嬉しそうな、幸せそうな声。我が子を胸に抱いた母親の、喜びに満ちた優しい声。
それは、子どもを見つけたときのアリオーシュの声だった。
『赤ちゃん、赤ちゃん、私の赤ちゃん。もう大丈夫よ。泣かなくていいの。もう大丈夫。
ひとつに、なりましょう。私の赤ちゃん』
レオナールの声が、震えて、掠れた。
「なんでも、ないんです」
嬉しそうに子どもを抱くアリオーシュの姿が、レオナールの盲いた眼に浮かんで、消えた。