悲しみの棘

「大丈夫よ。お母さんがいっしょ。だから、泣かないで」  森の中で独り、アリオーシュは泣いていた。  里は焼かれ、仲間は殺され、夫も死んだ。  すべてを失い、残された最後の一つを守るため、アリオーシュは戦っていた。 「大丈夫よ。お母さんが守るから……泣かないで」  右手で剣を握り、左腕に抱いた我が子を見つめる。  可愛い子。大丈夫、私が守る。ああ、それにしても。 (お腹が空いたわ)  我が子を連れて里を抜け出し、追っ手を撒いてここまで逃げてきた。食事など当然していない。  静寂の支配する森に、腹の虫が盛大に鳴り響く。アリオーシュは慌てて我が子の顔を覗き込んだ。 「ああ、ごめんなさい。お腹空いた? 気づかなくてごめんね。  大丈夫よ、すぐにご飯にしましょう」  母親の自分がこれだけ飢えているのだ。幼いこの子の飢えはどれほどのものだろう。  己の不明の詫びを籠めて、アリオーシュは頬を我が子にこすりつけた。甘い、やわらかな感触がする。ああ、それにしても。 (なんて、美味しそうなのかしら)  やわらかな白い頬。あどけない手のひら。口にすればどれだけ甘やかに蕩けるだろう。  あら、私は何をしているのかしら? ああ、そうだ。早くご飯を探さないと。この子がお腹を空かせているわ。帝国兵は撒けたかしら。油断は出来ないわ。いくら倒しても次々湧いてきたもの。あのときも。敵を食い止めて、先にこの子を逃がしたはずだったのに。悲鳴が聞こえて。駆けつけたら、赤い血の海に、この子が。  あら? 私は何をしているのかしら。早くご飯を探さなきゃ。この子がお腹を空かせているわ。赤い血の海。何か食べないと。この子を守れない。赤い血の海。私の子だもの。私が守るわ。赤い血の海。先に逃がしたはずだったのに。私が傍にいれば、あんなことには。赤い血の海。あら、私は何をしているのかしら。ぼうっとしているわけにはいかないわ。この子を守らないと。赤い血の海。何か食べないと。この子を守れない。赤い血の海。誰にも殺させないわ。この子は私が守るの。ああ、それにしても。  赤い血の海。 (お腹が空いたわ)  アリオーシュは我が子を見つめた。  腕の中の我が子は、だらりと空を仰いでいた。   *  *  *  あら。わたしは何をしてるのかしら?  ふと我に返り、アリオーシュは辺りを見渡した。森の中に独り。あれほど飢えていた腹は満たされて、渇いていた喉も潤っている。  首を傾げて、アリオーシュは口の中のものを飲み下した。何かしら、これ。とても甘いわ。舌が蕩けるよう。甘い、美味しい……あら、なあに、これ?  首を傾げて、アリオーシュは腕の中のものを見下ろした。赤い塊。内臓が散乱し、肉や皮が食い千切られ、剥き出しになった骨が覗いている。  これは何? どうしてこんなものを持っているのかしら? しばし眺めた後、アリオーシュは腕の中の肉塊を地面に放り捨てた。  ああ、お腹いっぱい。とっても美味しかったわ。やっぱりお腹が膨らむと力が出るわね。あら、私は何を食べたのかしら? まあいいわ。もう行かないと。敵は撒けたかしら? 油断しちゃいけないわ。この子を守らないと。あら? 「私の……子どもはどこ!?」  いない。いない。どこにもいない! 血眼でアリオーシュは周囲を探した。どこにもいない。あの子がいない。  どこに行ったの? 探さないと。私が傍にいないと。私が傍にいれば、あんなことには。  ああ、早く行かないと。きっと心細くて泣いているわ。お願い、待っていて。泣かないで。死なないで……。 「どこ、どこにいるの? 泣かないで。お母さん、すぐに行きますからね」  迷子のように泣きながら、アリオーシュは走り続けた。夜が暮れて、日が明ける。乾いた目から、涙が一筋。  頬はこけ、美しかった髪は艶を失い、返り血を浴びた肌は泥に塗れ、憔悴した眼に光はなく、それでも、アリオーシュは我が子を捜し続けた。 「大丈夫よ、今行くわ。だから、泣かないで……」  同じ言葉の繰り返し。飢えた腹の音が、悲鳴のように、だが滑稽に響く。  お腹が空いた。だけどあの子を探さなきゃ。きっとお腹を空かせているわ。可愛い子。泣かないで。お母さん、すぐ行きますからね。  でも、どこにいるの? こんなに探しているのに。返り血に塗れた剣を抱きしめて、アリオーシュは途方に暮れて空を仰いだ。  その耳に、小さな泣き声が届く。 「ああ、ああ……!」  破顔して、アリオーシュは声の方に駆け出した。  森が開ける。光が満ちる。白い街道に、奇跡のように愛らしい子どもが、母を求めて泣いている。 「見つけたわ、私の赤ちゃん!」  立ち竦む子ども目がけてまっしぐらに駆け寄って、アリオーシュは我が子を抱きしめた。緊張に張り詰めていた頬が、やわらかな母性を描く。  どこにいたの? いけない子。探したのよ。怪我はない? 泣かなかった? そう、偉いのね。  腕の中の甘い匂いに、アリオーシュは陶然と唇を綻ばせた。泣き声は既に止んでいる。  強ばった指は、血と脂に曇った剣を離してくれていなかった。 「もう大丈夫よ。すぐにごはんにしましょう」  心から笑んで、アリオーシュはごちそうにかじりついた。   *  *  *  咀嚼を終えて、アリオーシュは目を瞬かせた。あら、あの子はどこに行ったのかしら? 腕の中で真っ赤な肉塊が赤い涙を流している。これは何? どうしてこんなものを持っているのかしら?  後ろから聞こえた声にふり返る。こちらを指差して悲鳴を上げる、幼い子ども。あら、そんなところにいたの。  肉塊を放り捨てると、アリオーシュは笑んで我が子に向かい足を踏み出した。小さな背中が、悲鳴を上げて逃げていく。あら、鬼ごっこ? それとも隠れん坊かしら。いいわ、お母さんと競争よ。  踊るように歌うように、アリオーシュは歩き出した。微笑みは最早途絶えず、陶然とした眼差しは何も映さない。彼女の望むもの以外は、何も。  お腹が空いた。だからあの子を探さなきゃ。早く食べないと、あの子を守れない。私の子だもの、私が守るわ。だから、早く食べてあげなくちゃ。  気がつけば、辺りには赤い塊が散乱していた。赤い血の海。何か思い出しそうになったが、ぼやけてわからなかった。いくつもの肉片から我が子の姿を見出して、アリオーシュはゆるりと微笑み、我が子を掻き集めた。  あの子がいっぱい。こんなに食べきれるかしら? ああ、泣かないで。お母さんなら大丈夫よ。一人も残したりしないから。心配なんていらないわ。いつもいっしょよ、私の赤ちゃん。二度と離さないわ、だって、こんなに美味しいんだもの。あら、どこに行ったの? 可愛い赤ちゃん。もう、仕方ない子ね。すぐに行くわ。泣かないで待っててね。お母さんとの約束よ。 「すぐに行くわ。だから、待っててね」  けたたましく哄笑を上げ、機嫌良く鼻歌を歌いながら、アリオーシュは赤い海を進んでいった。  我が子のように抱えた剣は、いつの間にか醜くねじ曲がり、殺した子どもの数だけ、刃から禍々しい棘が生えていた。