紅い声、蒼い空
震えが止まらなかった。剣を握る腕が、勝手に動き出そうとするのを必死で止める。立ち止まってはいけないと言い聞かせても、震える膝が言うことを聞いてくれない。
自分が今恐怖していることに気づく余裕もなく、ノウェは神殿を彷徨っていた。
吐き出した息は熱く、貼りついた汗が体温を奪う。ひとり凍え、怯え、吐き気に耐える。腕に残った、肉と骨を裂いた感覚が気持ち悪い。
「どうして」
声といっしょに胃の中身をぶちまけそうになった。口を押さえ、喉元までせり上がった胃液を飲み下す。壁に手を突き、吐き気に耐えた。
立ち止まってはいけない。わかっていた。だが足は止まり、息もできず、もう、歩けそうになかった。
どうして。もう一度呟きが漏れた。
ジスモア。封印騎士団団長。オローを殺した。毒を盛って。俺に飲ませたのと同じ。何をしたんだ、俺は。怒りにまかせて、ジスモアに向かって、そして。籠手に包まれたジスモアの腕を、あっさりと断ち切った、あの力。
俺は人間だ。そう信じていた。レグナに育てられて、言葉も不得意で、あまり人の中に混じれないけど、別に特異な力を持ってるわけじゃないと、救世主なんかじゃないと、そう信じていたのに。
魔法じゃなかった。魔法なんて使う余裕はなかった。あれは一体。
ああ、こんなことを考えてる場合じゃない。早く逃げないと。
俺を信じてくれるやつなんて誰もいない。早く逃げないと。
エリスだって化け物を見るような目で俺を見ていた。逃げなくては。
早く。追っ手が。
「いたぞ!」
迷走する思考をあっさりと断ち切り、追手が行く手を遮った。朗々と響き渡る声。たくさんの足音がこっちに向かってくる。
聞いたことのある声が、いくつも。俺を取り囲む。剣を構えて、敵を見る目つきで。ああ、けれど、いつもとそう変わらないじゃないか。そこに殺意が混じってるだけで。
どうして。俺は。
「よくも」
追っ手の一人が声を絞り出した。一団の中でも際だって強い殺意。
見覚えがある人だった。任務を共にした。親切ではないけれど、俺を嫌っているわけでもなかった。
けれど今は、酷く、煮えたぎった声で、
「あいつを!」
俺を、
(ま、待てよ。話がわからない。ノウェ、お前、本当に)
最初に遭遇した騎士は、動揺を滲ませてそう尋ねてきた。信じられないという顔。俺のことを、信じてくれていたという顔。
喉に詰まった。言葉がほとばしった。別の言葉が。言いたかったのとは、違う言葉が。違う、あれは違う。違うんだ。あれは、
「死ね」
俺の声じゃない。
勝手に動いた腕が、追っ手の首を両断した。
宙を舞った顔が回転し、地面に落ちる。何が起きたのかわからなかった。その場の誰も。
一拍の静寂を置いて、悲鳴がほとばしる。逃さずに剣を振るった。腕が、勝手に。
血がほとばしる。返り血を身に浴びる。どうして。身体が、勝手に。
「死ねよ、クソども」
声がした。俺の声じゃない。体が勝手に動いて、逃げ惑う追っ手を斬り殺す。
これをやっているのは俺じゃない。体が言うことを聞かない。
違うんだ。声も出ない。叫びたいのに叫べない。止めたいのに止められない。追っ手が、また、今度は胴から裂かれて。
「ちぇ、ちぇ、何だよ、なんだってんだよ、クソが」
やめろ、やめてくれ。声が出ない。
代わりに声がする。誰かの声。女の声?
「救世主がなんだってんだよ! 竜の子がなんだよ。
俺は人間なのに。ただの人間なのに。俺を助けろよ。役立たずの雑魚どもめ」
違う。俺の声じゃない。俺の言葉じゃない。こんなこと考えてない!
「どうして信じてくれないんだよ。俺じゃないのに。俺が悪いんじゃないのに。どうしてそんな目で見るの? 僕悪くないのに!」
違う。違うんだ。言うことを聞かない体が、目についた騎士たちを斬殺していく。追ってくる者も、逃げ惑う者も。
殺す必要なんてないはずなのに。殺してしまう。違うんだ、俺は
「憎い、憎いよ、クソ野郎! こんな世界滅びればいい!!」
こんなこと考えてない。
立ち塞がる最後の追っ手が胴薙ぎに倒れた瞬間、紅い血飛沫と、晴れ渡った空が目に映った。