賢者の遺言

 枯れ果てた指先だった。  肉の薄い、骨と皮だけの指、腕、体。皮膚はしわだらけで水気が無く、生気も失われて久しい。  薄っぺらい服を一枚剥がせば、背中まで落ち窪んだ腹が見えるだろう。頬はこけ、髪は薄く、ただ瞳だけが爛々と輝いていた。 「マナよ」  寝床に仰向けに横たわり、最早死を待つだけのその男は、思いの外しっかりした声で傍らの娘を呼んだ。  娘は若く、美しかった。男ほどではないにしても、女もまた貧しく飢えていたが、髪は適度な長さで切り揃えられており、肌は乾いているもののしわ一つなく、生気も失っていない。死を待つ男の目が光を失っていないように、娘もまた凪いだ目で男を見下ろした。 「儂は愚かだろうか」 「賢者とは己の愚かしさを知る者です」  娘は答えた。静かな声音だった。慰めの響きはなく、ただ目の前の男への敬意と、わずかな非難だけが籠められている。 「どうして、抗おうとはなさらなかったのですか」 「……抗ったよ」  マナは男の手のひらを掴んだ。掴んで、残り時間の少なさを知る。赤い瞳が、わずかに歪む。  禍々しき邪眼と呼ばれるその赤は、男の目には頑是ない少女の目としか思えなかった。 「これが私の抗いだ。マナ。他人の目にどう映ろうと、私は微塵も後悔していない」 「貴方は」  荒げそうになった声を、マナは深く息をして鎮めた。  男は娘の顔を見つめた。彼女にならわかるだろう。男の言葉が紛れもない本心であることに。そして彼女はそれに苛立っている。 「貴方は愚かです」  改めて口に出された言葉は、泣き声を孕んでいた。男は微笑した。  やせ衰えた姿。満足な食事も取らず、民のために尽力し、己の杖さえ売り払い、飢えて倒れた、かつて炎の賢者と呼ばれた男。 「これが私の抗いだ。お前もお前の贖いを果たしなさい。マナ」  目を閉じて、もう一度口を開いたときには、彼女は落ち着いた表情を取り戻していた。 「果たされることはありません。私の罪は決して許されないのですから」  見る人が見れば、凛とした表情に見えたろう。だが、男にはやはり、唇を引き結んだ頑迷な少女のようにしか見えなかった。 「私の友の言葉だ」  声は掠れ始めていた。毒の炎が煙るこの地では満足な水も手に入らない。飢え、渇いた男の声はしゃがれて小さかったが、マナは聞き逃さぬよう身を屈めた。 「人は生まれながらに咎人だ。罪を償うために罪を犯す罪深い生き物だ」  男は虚空を見つめる。今はもう亡い友の言葉を、そこに思い描く。 「それでも」  確かな信念を持って、男は締めくくった。 「人は罰する者ではない。人は赦す者だ」  言葉は終わり、男は目を閉ざした。閉じた目蓋の向こうで、マナが男に毛布を掛け、立ち上がるのを感じる。足音が聞こえる。扉の開く音が。  最後に、男は自身の言葉ではなむけの言葉を贈った。 「贖いを果たしなさい。他の誰でもない、自分自身のために」  マナは暗い寝室をふり向いた。十年に及ぶ月日の間、マナを育て導いた賢者は眠りについた。  また目覚めることはあるだろうか。いいや、いずれにせよ、別れは終わったのだ。  賢者はマナに言葉を残した。あれが、彼の遺言になるだろう。 「それでも」  マナはささやいた。誰に聞かせるでもない、自分に言い聞かせるための言葉だった。 「私が赦されることなど、あってはならないのです。師よ」  それきり、最早ふり返ることはなく、マナは歩き始めた。  耳には、師の言葉ではなく、かつて何度も耳にした怨嗟が木霊していた。 「忘れるな。忘れるな。お前の罪は死んでも消えない」