Nowe
人を殺すのは嫌いだった。断言できる。
剣の修行は楽しかった。牙も爪も持たない自分が、それを持てるのが嬉しかった。自分が強くなっていく感覚。不得手だった魔道の修行を怠らずに続けられたのは、ひとえにそのおかげだろう。
生き物を殺すことに、抵抗はない。生物は他者を食らわなければ生きていけない。わざわざ言葉にするまでもなく、それはレグナと過ごした生活で実感していた。
だが、人殺しは苦手だった。騎士団の、ただ生きるための道理とは違う掟は、ときに自分には理解できない理由で人殺しを命じる。人の世の摂理など、竜に育てられた自分には実感できないものなのかもしれないけど。
けど、自分の同族だという人を殺したら、それに何の抵抗も覚えなければ、竜に育てられながら竜ではない自分と、名も知らぬ、人だったはずの両親との繋がりが、断たれてしまいそうで。
嫌いだった。それは、ごまかしじゃない、はずなのに。
「いたぞ、ノウェだ!」
矢のように背中に突き刺さった声に、ノウェはゆるりとふり返った。嵐のように鳴り響く金属音が、鎧を着込み剣を構えた追っ手の到来を告げる。
だらりとぶら下げた剣をぼんやりと持ち上げ、ノウェはひとりごちた。
俺は、人殺しが嫌いだ。その、はずなのに。
声が。
「来いよクソ共。皆殺しだ」
内側から滲んだ声に従い、顔面の筋肉がにたりと喜悦を浮かべた。
Eris
悲鳴が聞こえたのはわずかな間だった。勇ましい鬨の声が聞こえたのはそれよりもわずか。
剣戟の音すら聞こえなかった。目にするまでもなく結果はわかりきっていた。一方的な殺戮。それを成したのは。
「ノウェ!!」
入り組んだ谷間を駆け抜け、開けた場所にたどり着いたエリスを待っていたのは、濃密な死臭と仲間の屍の山だった。
見知った顔が、ほんのついさっき、今朝方までは生きていたはずの顔が、内側から飛び出た目を見開き、断末魔の形に舌をはみ出したまま、永遠に凍りついている。肌は血の気のなくなった青白さと澱んだ土気色が入り交じり、刻々と腐っていくだけのおぞましさが、端的に死を告げていた。
同僚の死を目撃するのは、これが初めてではない。だがこの数は。それをもたらしたのは。拒絶の形に首を振る。
仲間の死体は、一つの例外もなく一刀のもとに斬り捨てられていた。尋常ではない力で、鍛え上げられた体を骨も鎧も区別なく両断され、中身をぶちまけている。人の尊厳を根こそぎ奪われた死骸。へしゃげた鎧が、巨大な鉈で両断したような傷口が、それが緻密な技の鋭利さではなく、重さと速さによる単純な暴力でもたらされたことを示していた。
エリスが怯えたのは、その力にではなかった。十八年前、帝国との戦いでもたらされた、魔剣を媒介に用いる魔道の業。
ノウェは魔力を扱う業こそ拙かったが、その魔力はセエレ神官長すら凌ぐと言われていた。だからノウェは、魔道の修行をすべて身体活性の術に充てていた。常人ならばさほどの効果は望めないそれを、莫大な魔力により超人の域にまで高めていた。
だからエリスは、その力に怯えも、驚きもしなかった。オローやレグナ、懐かしいユーリックを除けば誰も知らなかったとしても、エリスだけは、ノウェの実力を知り、認めていたのだから。
だから信じられなかった。ノウェが、こんなことをするなんて、信じられなかった。
迷いも容赦も、慈悲の欠片もない一撃。災厄が降りた後のような惨状。誰も、これが一人の人間がもたらした殺戮とは思わないだろう。これでは、それこそ、まるで。
「ノウェ……」
清浄な気配に満ちていたはずの谷底に、むせ返る血の臭い。腐りゆく骸の丘。
その頂に、見慣れた青年が、きちんと生きてそこにいるのに、エリスは最初から気づいていた。
なのに、声は震えた。もう届かないものを呼ぶ声で。屍の山の上で、仲間の死骸に剣を突き立てたまま、大切な幼馴染みがゆっくりとふり返るのを、エリスは呆然と眺めていた。
返り血に塗れたままの笑顔。嗜虐に酔うケダモノの笑い顔。竜の子。悪魔の子。かつて何度も耳にした、そのたびに否定してきた言葉が、他でもない自分の脳裏にうごめく。見慣れた幼馴染みの、血塗れの、喜悦に呆けた笑顔。
湧き上がる嫌悪と、怒りと、疑念と、裏切られたという想いと、それらすべてを吐き出して、取り返しのつかない言葉を口にして、エリスは楽になろうとした。
ノウェが、泣き笑いに顔を歪ませなければ。
「エリス、逃げて」
頬を伝う涙が、返り血を一筋拭わなければ。
三度、エリスは幼馴染みの名前を呼ぼうとした。
それが音になる前に、しかし、逃げ出したのはノウェの方だった。
Manah
騎士団を脱走してから、ジスモアを斬ってから頭の中でわめき始めた誰かの声は、酷くなる一方だった。
女の声が、男の声が、交互に重なり合い、融け合いながら、耳の奥で交雑を重ねる。
(憎い)(この世界が憎い)(どうして俺ばっかりこんな目に)(辛いことはいつも押しつけて、いざとなれば見捨てて)(誰も俺を信じてくれない)(どいつもこいつもくたばればいい)(皆殺しにしてやる)(こんな世界滅びればいい)
俺の声じゃない。俺はこんなこと考えてない。そう思うのに、頭の中でわめく声に耳を澄ませれば、それはやがて自分の思考と区別が付かなくなる。
いつのまにか、自分もその言葉を口ずさんでいる。鼻歌に釣られるみたいに、同じ言葉をなぞり始める。
(殺す)「復讐だ」(正当な報い)「俺を裏切った罰だ」(遠慮は要らない)「皆殺しにしてやる」
平時はまだマシだったが、一度戦い始めればもう駄目だった。その場にいるすべてを殺すまで止まれない。
騎士団は追ってくる。戦わないと死ぬ。いつもレグナを頼れるわけではない。
(殺せ)「殺す」(くたばれ)「雑魚ども」(みんな)「一人残らず」(俺が)
「俺、が……」
次第に、これが自分の本音なのかと思い始める。区別が付かなくなる。
自分を排斥する人の世に復讐を。それが、俺の望みだったのか。
「違いますよ」
涼やかな声が、混沌に堕ちていく思索を掬った。
寝転ぶノウェに手を差し延べ、返り血を浴びて固まった髪をさらりと撫でる。乾いた冷たい手。静かな、けれど冷たくはない、赤い眼差し。
不思議と、血を連想したことはなかった。思うのは兎の目。温かな熾火。凍る炎のような紅玉。人の触れ得ぬ深淵のような目に畏れを成したのか、耳奥でわめく二重奏が、ピタリと止まった。いつもそうだ。
彼女が傍にいれば、この声は止まる。だから俺は、彼女の傍にいる。だけど、それだけじゃない。
「その声は、あなたのものではありません。あなたは、あなた。
身を清めてください、ノウェ。血の臭いは心を荒ませます」
静かに、迷いも恐れも、疑念もなく、ノウェを信じてくれる声。
「うん」と、幼子のような声で肯きながら、ノウェは近くに聞こえる水音に足を向けた。
マナ。封印騎士団に逆らう反逆者。大罪の聖女。赤い目の魔女。何でもいい。誰が何と言おうと構うものか。俺を信じてくれるのは、あの声は俺じゃないと言ってくれるのは、彼女だけなんだ。
泣き出しそうな顔で俯きながら、ノウェは一心に近くの滝を目指した。
だから、見送るマナが小さく「ごめんなさい」と口にしたのに、気づかなかった。
Eris
強い日射しに、濃密な黒い影。冷えた大気の凝る谷底で、屍の山から蒼穹を仰ぎ、部隊長への報告も後回しにして、エリスは必死に考えを巡らせていた。
あの後、脚力活性の術を駆使してノウェを追いかけたものの、結局レグナを呼ばれ、飛び去る竜を見送ることしかできなかった。
蒼穹から舞い降りる蒼き竜。その背にいた、もう一つの人影。
かつてないことだった。レグナが、ノウェ以外の人間を背に乗せるなど。よほどノウェに乞われて人命救助にでも駆り出されない限りは、レグナはノウェ以外の人間を乗せたがらなかった。
元より騎士団でも率先して乗りたがる人間はおらず、数少ない例外は自分も含めノウェと親しいがゆえに遠慮した。そもそも本気を出したレグナの飛翔に付き合えるのは、ノウェくらいということもあったが。
遠目ではあったが、今し方レグナの背に見えた影は、聖火台を破壊しザンポ殿の命を奪った魔女のものに見えた。透き通る金の髪に、禍々しい赤い目。
その目が何に由来するものかはわからない。確かにあの魔女は帝国の残党を匿っているが、騎士団に虐げられている民衆といえば、ほとんどが罪人である元帝国兵を指す。あの赤い目が帝国に由来するものという証拠にはならない。
……帝国と関わりがあるかはわからない。だが、十八年前の大乱において、帝国は連合軍の兵士を一夜を待たずして洗脳し、洗脳された兵士の目は赤く染まっていたという。
ノウェがジスモア団長を斬ったのは、あの女に会った直後。そしてこの死体の山。ノウェのものとは思えない所業。喜悦に狂った笑みのまま、涙をこぼしたノウェ。ノウェと共にレグナに乗る、赤い目の女。
──十八年前の大乱において、天使の教会はその赤い目で信者を狂わせたという。
「──あの女……!」
瞳を燃え上がらせ、純白の聖女は烈火の如き形相で蒼穹を睨め上げた。