赦しの証

 自分を呼ぶ声に揺すられ、マナは一時いっとき、目を覚ました。  ほんの一時。すぐにまた目を閉ざして、うずくまる。だが呼ぶ声は絶えてくれない。求める声が離れてくれない。 (やめて。起こさないで。眠らせていて。誰なの? あなたは)  呼び声は聞き覚えがある気がしたが、マナは思い出すのをやめた。思い出したくない。考えたくない。これ以上、何もかも。だって、カイムは死んだのだから。  結局思考はそこに行き着き、マナは顔を覆った。心のなかで、幼子のように身を丸める。耳を覆う。思考を塞ぐ。考えたくない。思い出したくない。思い出したく、なかった。  わからない。カイムがどうしてわたしを許してくれたのか。考えたくない。どうしてカイムがわたしに優しくしてくれたのか。知りたくない。わたしのしたことが、どれだけ彼を傷つけ、蝕んだのか。取り返しがつかない。償いようがない。だって、カイムは、死んでしまったのだから。  わたしが殺したようなものだと、夢の中でマナは認めた。親友を奪い、妹を奪い、片翼を奪い、信頼を裏切り、命も奪った。わたしさえいなければ。 『マナ。帰ってきてくれ。起きてくれ。俺にはマナが必要なんだ』  ごめんなさい。謝罪と懺悔を繰り返しながら、夢の中に逃避する。それでも声は追いかけてくる。離して。放っておいて。わたしなんか、いないほうがいい。  繰り返しても声は去ってくれない。マナ。マナ。マナ。呼び声に耳を塞ぎ、うずくまる。  何も考えたくない。だって、カイムは死んでしまったんだもの。赤き竜といっしょに。灰になってしまった。最期に微笑んで。逝ってしまった。剣だけを遺して。 (微笑んで?)  見過ごしていた疑問に、マナは瞠目した。  なぜ自分は、彼が最期に微笑んだことを知っているのか。カイムがふり向いたからだ。なぜ? なぜカイムは、最期に、ふり向いたの?  だって、やっと会えたのに。十八年間、分かたれていた半身に、やっと再会できたのに。  青き竜に灼かれ、やっと正気に返った赤き竜の体は、今にも塵になりそうだった。カイムもそれはわかっていた。遺された時間はわずか。片時も目を離したくなかったはずなのに。どうして。  胎内のような温かな闇が遠ざかり、焦げた夜気がマナを包んだ。  カイムが死んだ夜。マナはカイムを観ていた。あの夜、ノウェに連れられるまま、自分もそこにいた。ふたりを観て、その心を覗いていたのだ。
*  *  *
 十八年前、初めて出会ったのと同じ場所で、同じように、赤き竜はカイムを見上げた。  契約か、死か。剣を振りかぶり迫った自分を、昨日のように思い出し、男は微笑んだ。  竜も思い出したのだろう。堕落したものだと自嘲して、それが快いことに満足を覚える。男が手を伸ばし、鼻先を撫でる。あの決戦の最中のように。  冷えた体に、男の手は暖かかった。心地よさに息を漏らす。男が笑んだのに、調子に乗るなと頭を揺らす。これ以上は、離れがたくなる。男にはまだやるべきことがあった。  竜に促され、男はふり返った。そこには、娘がいた。へたり込み、途方に暮れた迷子のような顔でこちらを窺う、今にも泣きじゃくりそうな、赤い目の娘。  かつて男が、全霊を賭して憎んだ娘。男からすべてを奪った娘。男が虐げた娘。背が伸びていくのを見守った娘。男が剣を置き、すべてから守り抜こうと誓った娘。男を裏切った娘。男から逃げ、忘れ、償おうとした娘。  娘の傍らには、青年がいた。かつての親友と、妹に似た面差しの。まだ未熟で、拙く、青臭い。男の亡き後も、娘を守り抜こうとするだろう青年。 『もう良いのか? カイム』  片翼の問いかけに、男は頷いた。ふたりはもう別離の苦しみを味わいたくはなかった。  限界を迎えた体が崩れ、灰になる。そのさなかに、男は娘に語りかけた。  声にならない思念が、マナの中で読み解かれ、言葉になる。 『天使の名を呼ぶを赦そう』  そのときは耳を塞ぎ、聞き逃していた想いを、今ようやく、マナは受け取った。 『生きろ。マナ』
*  *  *
 静寂がマナの心中に満ちていた。水面の薄ら氷のようにひび割れていくのを予感しながら、マナは立ち上がった。  ごめんなさい。そうささやく。殴られないためではなく、逃げるためでもなく、かなしみが自然と言葉を紡がせた。  身に纏うのは赤いドレスではなく、着慣れた旅装になっていた。カイムに与えられたブレスレットを撫で、苔色のマントを腰に結ぶ。武器である杖を手に、マナは眼前を見下ろした。  そこには、幼い頃の自分がいた。赤い祭服を纏い、赤い目で世界を睨めつける、天使の教会の司教――過去の自分の姿を借りた、神。 「カイムは、わたしを許してくれました。  決して許されるはずのない罪、世界中の誰からも許されない罪、誰よりもカイムが許せないはずの罪を許して、わたしに愛を教えてくれた」  マナは自ら言葉を発した。つぶやくたびに胸に棘が刺さったような痛みが襲ったが、逃げてはいけないのだと、そう思えた。 「わたしは、その許しに恥じない自分になりたい。  世界中の誰からも許されずとも、カイムは許してくれた。それは間違いではないのだと、誰よりもまず自分に胸を張りたい。  だから」  過去の自分に、マナは杖の切っ先を突きつけた。 「わたしはもう、あなたの傀儡にはならない。  あなたの妄執から、世界を解放する!!」  赤い花が散り、血の涙を流す影が湧きあふれた。  伸びてくる影の手を飛び退って躱し、杖を振り下ろす。舞うように戦いながら、マナは影の声に耳を傾けた。 『僕は強いのに。本当は強いのに。カイムより強いのに。フリアエは僕を見てくれない。  僕を見て。僕を愛して。カイムじゃなく。僕を。僕は。君に、歌を』 「あなたは女神を……いいえ、フリアエを愛していました。彼女の助けになりたかった。  その想いを貶め、狂わせたのは、わたし」  静かに認めて、影を貫く。次の影が泣き声を上げる。 『わたしは女なのに。ただの女なのに。どうしてわたしが、わたしだけが、こんな。  わたしを守ってよ。わたしを助けてよ。役立たずの男どもめ。  ねぇ、お願い。わたしを抱きしめて。わたしを犯して。オニイチャン』  封印の女神フリアエ。その秘めた嘆きに、マナは頷いた。 「世界を憎みながら、あなたは大切な人のために苦しみに耐えていた。  その想いを暴いて、最悪の形で伝えて、あなたを殺したのは、わたし」  マナの力は、人の心を読み解く。声にならない想いまで。だが、それを言葉にするのはマナ自身。  マナの解釈が歪んでいれば、言葉にされた想いもまた歪められる。過去にそうして貶めてきた名誉を正しながら、マナは襲い来る影を打ち払った。 『セエレ。わたしの可愛い子』  だが。最後に現れた影に、マナの動きは止まった。  呆然と、自分を見下ろす影を見上げる。 『セエレ、わたしが愛していたのはあなただけ。わたしの子はあなただけ。  覚えていて。セエレ。わたしの可愛い、大切な子』  その声に満ちあふれた愛情に、マナは打ちのめされた。  それが母の最期の言葉だと、マナは知っていた。セエレから読み取った過去の記憶。母は最期まで、マナを愛さなかった。  母の影が拳を振りかぶる。避けるという発想もないまま、マナは殴り飛ばされた。身を縮こまらせうずくまる。命乞いをする。ごめんなさい。繰り返す。 『寄らないで。汚らわしい赤い目。おまえなんかわたしの子じゃない。  あなた、どうして信じてくれないの。セエレはあなたの子よ。マナなんて知らないわ。知らない。赤い目なんて知らない。  マナ、おまえさえいなければ。わたしは幸せだったのに。幸せに暮らせていたはずなのに。おまえのせいで。おまえがわたしを殺したから』  殴られ、蹴られ、髪を毮られながらマナは繰り返した。ごめんなさい。おかあさん。ごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。ゆるしてください。おかあさん。  いつの間にか、マナは子どもになっていた。六歳のときよりも小さい、無力な自分。ああ、結局わたしはこのままなのだ。諦めと共に悟る。  結局わたしは、母に愛されなかった子どものまま。ここから一歩も前に進めないまま。母に殺されて終わる。  ごめんなさい。謝る。カイムに、育ててくれた賢者に、信じてくれた人々に、それから、 (ノウェ)  刃が。影を貫いた。  呆然と、マナは自分の肩を抱く男を見た。隻眼の男。母の姿を借りた神を睨む、マナを苛み、守り続けた男。  カイム。マナのささやきを受けて、カイムは剣を振り上げた。  影が斬り裂かれ、血しぶきのように花弁が舞い散る。視界が赤く染まり、声が降る。 「マナは返してもらう」  呆然と、マナは自分の肩を抱く男を見た。  ノウェが、カイムの剣を手に、幼いマナの姿を借りた神を睨みつけていた。