「ララララ、人は我が失敗作。
我が写し身でありながらエゴばかりが強い、醜い、醜い、醜い、死ぬが良い」
濃密で強大な魔力が立ち昇る。マナの指が宙をなぞると、無数の天使文字が弾幕となって降り注いだ。
咄嗟に振り抜いた剣に魔力を充填する。展開した障壁が衝撃と爆音に揺れて、あっという間にひび割れる。
「レグナっ!」
急降下した蒼竜の爪撃を、マナはステップを踏むように軽やかに躱した。
石礫も砂埃も彼女には当たらない。踊り子のように嫋やかに笑いながら、花弁を撒くように魔弾を撒き散らしてくる。
それらを撃墜しながら、レグナの呼気に青い炎が燃えるのを見つけて、ノウェは慌てた。
『ダメだレグナっ。なんとか正気に戻さないと……』
『諦めろ。この娘の自我は神に乗っ取られた。此処で、討ッ!?』
マナの姿が掻き消えた。かと思えば、レグナの鼻の上に着地している。
赤い目がレグナを睥睨して、嗤った。
「ララララ、竜は我がしもべ。我が玩具。我が箒。
殺せ殺せ、我が失敗作を」
レグナの眼に赤が滲む。呆けた口から炎が薄れ、翼が弛緩して地に伏せ、マナに頭を垂れようと……
「レグナーっっ!!!」
ノウェの一喝で、レグナの眼から赤が拭われた。咆哮と青い炎がマナのいた空間を焼き尽くす。
そのときには既に、マナは空にいた。宙を足場にステップを踏み、唇が呪文とも譫言ともつかぬ言葉を紡ぐ。くるくると回る腕に、光る天使文字の帯が羽衣のように絡みつく。
その帯が巨大化しながら地上に迫るのを、ノウェは力任せに斬り払った。
光の帯を織り上げる緻密な術式は、ノウェにはとても読み解けない。だが、救世主と謳われたノウェの魔力が魔剣に纏わせた光刃は、光の帯に劣らず強く鋭かった。
『単純な力場展開だけで、神の傀儡に対抗しうる……ノウェ、やはりお前は』
『レグナっ。なんとか、なんとかマナから神を追い払えないかっ!?』
レグナの感嘆をノウェは聞いていなかった。閉口するレグナの呆れを察せないまま、必死に魔弾を捌く。
『諦めろと言ったぞ。あの娘は神の器。自我を奪うも奪わぬも神の思うがままだ。解放できるのは神だけよ』
「ララララ。この女は仮の器。我が真の器に降誕するまでの捨て駒。
天使笑ウ天使歌ウ天使天使ララララ」
「仮? 本当の体が手に入ったら、マナを解放してくれるのか?」
「馬鹿者っ!!」
甘言に目を輝かせたノウェを、レグナが一喝した。
『真の器とは再生の卵に生きた人間が入ったもの、叶えば真に世界が終わるぞっ!』
『再生の卵に入った人間って……俺?』
明かされた己の出生を思い出し、ノウェは戸惑った。
十八年前、封印の女神フリアエの亡骸を抱いた裏切りの竜騎士イウヴァルトが再生の卵に入り、ふたりが混じり合って生まれたのが、自分。
そう聞かされたところで、実感などまるでなかったが。
『おまえは神を封ずる女神の亡骸と、赤目病を自力で克服した男が混ざった、生まれながらの神の天敵だ。
おまえが先に再生の卵に入れば、神の力を奪い真の救世主になれる』
『けど、マナが』
『おまえ以外が卵に入り神の依代が完成すれば、どの道人間は滅ぶぞ。
失敗作だから滅ぼすなどと嘯いているが、水面に映った己の醜悪さに狂っただけのこと。和解も譲歩もあり得ぬわ』
「ララララ。竜よ。我がしもべたち。おいでおいで。ララララ」
マナの体で神が嗤う。赤く裂けた天に腰かけて、頭上へ腕を広げる。
空が翳る。レグナよりも大きな白い巨体が、天の裂け目から現れる。
伝説が、降りてきた。エンシェント・ドラゴン。膨大な力と長きを生きるがゆえの希薄な自我。雷雲の如き巨大な体躯に、ノウェは吠えた。
レグナの背に飛び乗り、一気に飛翔する。
勝てるかはわからない。マナを討つ覚悟なんて決められない。だけど、マナに、マナの体で、世界を滅ぼさせるわけにはいかない。
光刃が竜騎槍となって古竜へと突進する。巌のような眼がノウェを睥睨し、神の意のままに息吹を放とうとして、閃光に灼かれた。
地上から無数の碧い魔弾が放たれた。咄嗟に回避しようとしたノウェは、それがエンシェントドラゴンだけを狙っているのに気づいた。
複雑な軌道を描く魔弾がノウェとレグナを避けて、エンシェントドラゴンの鱗を蜂の巣にする。
緻密な魔力操作と、高密度の魔弾。目を凝らしたノウェは、地上を埋め尽くす無数のゴーレムと、その中で一際大きな機体の肩に乗る、小さな人影を見つけた。
「セエレ神官長!!」
いつも穏やかに微笑んでいたあどけない面差しは、今は厳しく空を、妹を乗っ取った神を睨みつけていた。
『ノウェ。マナは僕が。あなたはエンシェント・ドラゴンを!』
飛んできたセエレの思念に頷いて、ノウェはレグナを駆りエンシェント・ドラゴンへ突進した。
封印騎士団の罠かもしれないとは考えた。だが、今のノウェに他に縋るものはなかった。
『悠久の果てに神の尖兵と成り果てた先達よ、今その呪縛から解放しようぞ!!』
レグナが吠え、蒼炎が古竜の鱗を抉った。ノウェの光刃が追撃し、その下の肉を削ぐ。
古竜があぎとを開き、角と一体化した頭部がノウェたちを見た。
「レグナッ!!」
返礼のブレスが空を灼いた。聖なる竜の異名に相応しい真白い炎が、直撃を避けレグナとノウェが二重に障壁を張ってなお、肌を炙り視界を眩ませる。
長期戦は不利。下手に避ければ地上のセエレ神官長のゴーレム兵も焼き払われる。魔力で治癒力を活性化させながら、ノウェはレグナと魔力を一体化させた。
竜騎士の本領。魔力の交流が互いの魔力を爆発的に強める。
レグナの力が高まっているからか、ノウェ自身の成長か、交感はかつてなく深く、湧き上がる力は絶大だった。膨れ上がった青い輝きに、古竜が再びあぎとを開く。
『このまま突っ込む!』
『は、おまえも馬鹿者になったものだな!』
レグナの思念に歓喜が滲むのを聞きながら、ノウェはレグナと共に視界を埋め尽くす白い炎へと突進した。
* * *
『ララララ、天使が歌った。天使は笑うよ。ララララ、天使!』
調子外れに響く神の思念を聞き流しながら、セエレは無数のゴーレム兵を操作した。
ゴーレム兵一体一体の力は、ドラゴンに遠く及ばない。空は飛べないし動きも遅い。火力と耐久力はなんとか及第点だが、持たせられた機能は魔弾と障壁のみ。速射と溜め撃ちは切り替えられるが、それだけだ。
だが、セエレが指揮を取ることで、ゴーレム兵は群れとして機能する。
マナの体で神がばら撒く魔弾を、セエレはゴーレム兵の障壁を組み合わせた多層結界で撃墜した。一枚一枚は単純な障壁が、複雑に連結することで強度・密度・範囲すべてが向上する。
ゴーレムを造り、操る石の隠れ里。帝国軍に滅ぼされた故郷の技を、セエレは復活させ、進化させた。
それを可能としたのは、セエレの契約者、心の芽生えた稀有なゴーレムだ。
彼の思念を他のゴーレムと連結させ、全体で一つのゴーレムと認識させる。セエレが指示を出すのは彼だけでいい。それだけで、無数のゴーレムが一個の生き物のように完璧に連携する。
「ごめんね、ゴーレム」
『ゴゴゴ、ヘイキ。セエレ、ヤクニタツ……ウレシイ』
健気で頼もしい友の言葉に微笑をこぼす。
自分の心だけが大人になり、彼を置き去りにしてしまったような気がしていたが、それでもやはり、自分の相棒は彼だった。
「うんっ。行くよ、ゴーレム!」
『ゴーッ!!』
気合の言葉と共に、ゴーレム兵の発射した魔弾が津波のように神へ殺到した。弾速を調整し、絶え間なく妹の体へ届くよう浴びせかける。
いくら攻撃しても神の障壁に阻まれるが、それでいい。未だ本来の器を取り戻していない神にとって、仮ではあってもマナは希少な器。失うわけにはいかないはずだ。
攻撃を目眩ましに準備を続ける。神が嘲笑う。
『ララララ、わたしが憎いのね? オニイチャン。怨んでるのね? 殺したいのね? 愛されてるから!!』
「君を憎んだことなんてないよ、マナ」
神が代弁する妹の思念に、セエレはささやいた。妹には届かない言葉だ。
セエレが憎んだのは自分だ。あの頃も、今も。セエレは妹を見捨てて母の愛を甘受した。
自分が母を諌めていたら。せめて、マナを逃していたら。世界が滅びることは、少なくとも、マナが神の器に選ばれることはなかった。
そして、マナがセエレとの対話を拒み、鍵を破壊することも。自分に彼らを責める資格も、罰する権利もない。誰よりも世界を救い、赤き竜を、カイムを救わなければならなかったのは、セエレなのだから。
「自分を責めてはなりません、セエレ。
……あなたは、たったの六歳だったのですから」
肩に触れた穏やかな声に、セエレは顔を上げた。
微笑みを浮かべる歳経た男、盲目の契約者レオナールが、朧に舞い飛ぶ誘導弾を放ち、神の魔弾からセエレたちを守る。
十八年間、ずっと自分を守ってきた男に、セエレは首を振った。レオナールも家族を失い、自分を責めているのを知っている。秘めた欲望も今は知っていたが、それを隠す真心を信じてもいた。
「ぼくはもう、二十四歳なんだ。だからいい加減、お兄ちゃんをやらなくちゃ」
「……大きくなりましたね」
レオナールの微笑に水を差すように、絶叫がふたりの間に飛び交った。
『うっぜぇぇぇぇ! くっせぇぇぇぇ!! なぁぁあにイチャついてんですかぁ。時と場所を弁えてくださいよぉ、神官長さぁぁん』
「フェアリー」
レオナールと契約した妖精が、鼻を摘んでわざとらしく舌を突き出してくる。
彼の幼稚な中傷に付き合う気はなく、セエレは鷹揚に頷いた。
「そうだね、ごめん。レオナール、頼める?」
「お任せください」
『はぁぁぁぁ? テメェらで勝手にやってろよ。俺はいち抜け、ぐぇっ』
「私とあなたは一蓮托生、そうでしょう?」
フェアリーを掴み、レオナールは宙へ跳んだ。魔力が背中に翅を形成し、フェアリーの鱗粉が誘導弾となって神の魔弾を撃墜する。
ゴーレム兵の弾幕も厚みを増し、神は次第に追い詰められていった。障壁を兼ねた光の帯が穴だらけにされ、撒き散らす魔弾が一つも地上に届かない。
不意に障壁を消して、神は両手を挙げた。
『殺したいんでしょ? どーぞっ』
「──…」
無防備なマナの体。絶好のチャンスに、ゴーレム兵の魔弾が、外れた。
背後に逸れていく魔弾を見送って、神が勝ち誇った笑顔を浮かべる。唇が呪文をさえずろうとして、止まった。
マナから逸れた魔弾がそのまま旋回し、弾道が天使文字を描く。幾重にも重なる光が、それに加わった。
目眩ましに放たれていた魔弾の影で、呪文の檻がマナを囲み、神を閉じ込めようとしていた。
『おのれ、まだ抗うか。醜い、醜いぞ、人間!!』
苛立つ神の思念を浴びながら、セエレは檻の完成を急いだ。魔弾を掻き消し逃げようとする神を、レオナールがフェアリーの鱗粉を飛ばして邪魔立てする。
檻の完成まで、二手足りない。セエレは悟ったが、ただ手を動かした。
檻を砕こうとした神の魔弾をレオナールが撃ち落とすが、続く光の帯が迫るのを止められない。
地上から、純白の光条が閃いた。光の帯が断ち切られ、霧散する。魔槍を掲げた女騎士が崩れ落ちるのを、レオナールが掬い上げる。あと一手。
檻の端に飛翔した神が、そのまま結界の外へ逃れようと手を伸ばす。
「マナを、返せぇぇぇえええっ!!」
振り下ろされた光刃が、障壁となりその門戸を閉ざした。
大穴が開き谷底へ墜ちていくエンシェント・ドラゴンを背景に、レグナに騎乗したノウェが神を阻むのを尻目に、セエレは結びの句を唱えた。
「天の時よ、凍れ」
光が凍りつく。
指を伸ばし目を見開いた姿のまま、神は空中で静止した。
精緻な刺繍を施された毬のような結界が、マナの体を囲み、その動きを静止させていた。
その姿を案じながらも、ノウェはレグナから飛び降りて地上に着地した。ゴーレムの掌から降りたセエレ神官長の隣に、守り手レオナールが降り立つ。
その腕から降ろされた女騎士に、ノウェは目を見開き、次いで、駆け寄った勢いのまま抱きついた。
「エリス!!」
温かい。生きている。幻じゃない。
ただ敵対しただけの人間を大勢斬り殺した自分が、今更友の生を喜ぶのか。頭の片隅で嘲ける声がしたが、湧き上がる安堵は消せなかった。
「ノ、ノウェ。エリスは病み上がりで、傷もまだ塞がってないですから」
「ごっ、ごめん。助かったんだな、エリス」
「……ええ。セエレ神官長が処置してくださったの。わたくし、あんなことでは死なないわ」
頬を赤らめながら頼もしく笑う姿に、あのときの死相はない。
感謝を述べると、セエレ神官長は首を振った。
「エリスの気力がすごかったからだよ。それに、マナの応急手当が功を奏したんだ」
「マナ……」
あのとき、ノウェの訴えに、マナはエリスの傷に回復魔法を施してくれた。すぐに封印騎士団が駆けつけたので、後は彼らに託して逃げるしかなかったが。
エリスは複雑な顔をしていた。空を仰ぐと、セエレ神官長の結界の中で凍りついているマナが見える。
空中で静止して、瞬きもせず、呼吸も感じられない。
「あれは……」
「僕の契約紋を解析して開発した、時空静止の結界だよ。天時の鍵の基になったものだ」
セエレ神官長の表情は苦かった。女神を封じた五つの鍵は、大戦の英雄たちの契約紋を基にしたものだ。
セエレとレオナールの天時と宝光、アリオーシュの気炎と神水、ヴェルドレの明命の鍵をそれぞれ新たな契約者に引き継いで、女神を苛む封印は存続した。
『それで? 世界が終わるまで、ああして悠長に先延ばしにしてやるつもりか?』
レグナの冷ややかな思念に、セエレ神官長は首を振った。
「そこまで長くは保たない。平時ならともかく、今は余裕がないしね。僕の魔力が尽きる前に、マナを助けないと」
「助けられるんですかっ!?」
顔を輝かせたノウェにセエレは頷いた。
「マナの心に入って、目覚めさせるんだ。マナが覚醒すれば、神に対抗できる」
「心に入る……そんなことができるんですか?」
「マナの読心を使うんだ。神から授かったのが始まりでも、あれはもうマナ自身の力。こっちで干渉して強めてやれば……」
『もっと容易い方法があるぞ。その女を今すぐ殺すことだ』
割り込んだレグナの思念に、ノウェは腹が燃えるような怒りを覚えた。
睨みつけた《父》は、平然と後を続けてくる。
『その女と神は一体化している。今ならその女ごと神を葬れるはずだ』
「それはできません。無策で神を殺せば、おおいなる時間が……」
『封印が解けておる今は些事であろう。案ずるな。神の後釜には、我らが』
「レグナ」
ノウェの鋼のように冷えた声に、レグナは思念を途絶えさせた。セエレが後を続ける。
「ぼくはマナを助けたい。兄だから、償いだからというだけじゃなく、神の器になっているマナなら、おおいなる時間を破綻させず、神の干渉を断てるはず。
それが、ぼくと、マナの償いにもなるって、信じたい」
『夢を見たくば好きにするがいい』
レグナが引き下がったのを見て、セエレが一同を見渡す。
「マナの心に潜るのは、ノウェにお願いしたい。君の魔力ならマナの心の中でも自分を保てるはずだし、君とマナは仲間として過ごした時間がある。
その間の警護は、レオナールと、レグナに。ぼくは結界の維持があるから、マナの心に潜る術はエリスにお願いしたいんだけど、いいかな?」
それぞれが頷く。レグナは渋ったが、ノウェが口添えすれば了承した。いつものことだったが、この滅びの中でいつも通りのやり取りができたことが、少し可笑しい。
エリスだけが、俯き、眉を顰めていた。ずっとマナを敵視し、殺そうとしてきたエリスに任せるのは、ノウェも不安だったが。
「わたくしはこの女に、命を救われました」
苦虫を噛み潰すような顔で、エリスは告げた。
「ならば、わたくしの誇りにかけて、その借りは返さねばなりません。
行くわよ、ノウェ!」
「ああ!!」
エリスと、再び共に戦う。喜びと決意を胸に、空で凍りついたマナを見上げる。
必ず救ってみせる。エリスの頷きに合わせ、ノウェは強くマナの名を呼んだ。