赤黒い洞に佇んでいる自分に気づいて、マナは不安に空を仰いだ。頭上に広がる闇が重くのしかかり、胎動する紅が自分を小さく押し潰そうとする。
ああ、ここは、わたしの心だ。
自分が逃げ出したのを悟って、マナは苦く呻いた。見下ろした体は赤いドレスを纏っている。十八年前纏っていた、天使の教会の祭服。
幼い頃は威厳を被せてくれた衣装は、今の自分には淫らだった。成熟した肢体に赤い布地が貼り付いて、乳房の輪郭を浮き彫りにする。
世界を滅ぼした魔女には相応しい。自覚して、マナは顔を覆った。
償いたかった。十八年前、滅ぼしてしまった世界に。元帝国兵だと迫害され、困窮した人々に。誰よりも、カイムに。償いきれるものではないと知りながら歩んだ、その道のりは間違いだった。
カイムのためにと口にして、すべての鍵を壊して。封印が解かれた赤き竜は堰き止められていた時間が流れ発狂し、世界を焼き尽くしてしまった。マナが守ろうとした人々も。何もかも。
わたしはまた、世界を滅ぼしたのだ。
「ララララ、ララ。じゃあ、ここでおしまい?」
自分独りのはずの心に、あどけない声が響いて、マナは顔を上げた。
マナと同じドレスを纏った女童が、くるくると花びらを散らしながら踊っていた。紅の裾が翻り、甘やかな芳香が匂い立つ。
頬にかかる儚い金色の髪。毒々しいと何度も罵られた、鮮やかに赤い瞳。まろやかな白い頬。幼かった頃の自分。
いいえ、違う。腑抜けていた面に力を籠めて、マナは少女を睨みつけた。
「わたしはもう、あなたの操り人形にはなりません。
去りなさい、神よ」
幼いマナの姿を象った神は、妖しく嗤った。
「ホントウに?」
幼い自分の声が、男のように低く濁る。無垢な笑みが悪意を滲ませるのは、途方もなく醜悪だった。
これが、あの頃の自分なのだ。ドレスの裾を握りしめ、マナは目を逸らしたくなる衝動と戦った。
神が未だに己の中に巣食っているのは、わかっていた。神と契約した恩恵である読心の力――恐らくは母の機嫌を伺い、母の愛を求めたために授けられた力――は、変わらずマナと共にあったのだから。
「本当です。わたしは、償いを諦めなど」
しない、と。
断言するより先に、神の赤い目が、上目遣いにマナを覗き込んできた。
「ホントウに?」
唇が震える。心の中で思い描いただけの我が身が、悪寒を感じて縮こまる。
これは、自分だ。紛れもない自分の声だ。神は途方もない悪意の塊であり、人類を滅ぼそうとする意志は確としているが、その形は憑依した人間に寄り添う。
だからこれは、わたしの罪だ。わたしが、十八年前、世界を滅ぼした。わたしを愛さなかった里を滅ぼした。幸せな男女を、両親に囲まれて過ごす子どもを、その人生を破壊した。
覚えてる。忘れない。そう誓った。だから。
「認めます。確かに、挫けそうになっていました。
カイムが……死んでしまったから」
声に出すだけで、言葉にして思い出すだけで、喉を切り裂きたくなった。
カイム。わたしが故郷を、両親を、親友を、妹を奪ってしまった人。そして今、その生命も、最愛の相手さえ、わたしの過ちで、的はずれな償いで、奪ってしまった。
彼に引きずられて、世界を放浪した六年間を思い出す。壊れた街、荒んだ人心を肌に感じて、罪の重さを思い知らされる日々だった。
手首に巻いたブレスレットに触れる。カイムに渡されたそれは、マナが罪を忘れないための戒めだった。
かつてはカイムと妹との絆の証。今は、マナの罪の証。
「わたしは、誰より、カイムに償いたかった。彼に、許されたかった。
そんな日が来ないのはわかっています。けれどわたしは、その道を歩むことを止めてはいけない。それを思い出しました。
だから、」
神が、嗤った。
楽しそうに、心から楽しそうに、一音一音、噛みしめるように、マナの目を覗き込んで、尋ねる。
「ホントウに?」
闇が晴れた。頭上に曇天が広がる。地面には荒野と廃墟。髪をなぶる荒涼とした風。砂埃が舞い、陽射しを曇らせ温もりを遠ざける。
ここがどこだかわかって、マナは瞠目した。カールレオン王国。滅びたカイムの故郷。
ここがいつだかわかって、マナは怯えた。
幼いマナがいる。神ではない。司教だった頃よりも背が伸びて、粗末なボロを纏っている。顔は卑屈に――セエレのように心細げにしかめられ。髪は変わらず丁寧に切り揃えられている。
それをしてくれたのが誰だったか思い出す。滅びた故郷を見渡す、黒い男がいる。
カイム。呼びかけは喉で潰えた。静かな黒い眼差しが、幼いマナを見下ろす。
「やめて」
何が起きるか知っていたから、マナは呻いた。
カイムが手を伸ばす。覚えている。マナに向かって。覚えている。この手に何度も腕を掴まれ、引きずられた。頭を掴まれ、己の罪を見ろと罵られた。
覚えている。この後どうなるのか。
剣を握る荒れた手が、マナの頭に触れて。
「やめて……!」
懇願が届くはずもなく。
ぐしゃぐしゃと、カイムはマナの髪をかき混ぜた。
不器用な手つきを覚えている。子どもへの触れ方を忘れた手。力強さに翻弄されて頭が揺れて、離れていった後もくらくらした。
それから、思い出したようにカイムは腰をかがめた。マナの手を取って。
己の手首からほどいたブレスレットを、マナの手首に巻いた。
『いいの?』
幼い自分が尋ねる。思いがけない贈り物に、どう反応したらいいかわからなくて。
見上げた先で、カイムは微笑んだ。
雲間から覗いた太陽のような、偽りのない澄んだ笑顔だった。
「ごめんなさい!!!」
絶叫が喉を掻きむしった。過去の情景が遠ざかり、赤黒い洞へと舞い戻る。
だがマナの赤い目には、さっきの、かつての情景が焼き付いていた。
覚えている。六年間の旅路。カイムの声にならない言葉。憎しみ。
忘れるな。忘れるな。おまえの罪は死んでも消えない。生きて、目を見開いて、己の罪を見つめ続けろ。
「ホントウに?」
神の問いに、今度こそマナは耳を塞ぎ、目を閉じて絶叫した。
いつからだろう。カイムがわたしを睨まなくなったのは。見上げると、憎悪に濁る瞳ではなく、静かに透き通った眼差しが返ってくるようになったのは。いつからだったろう。
いつからだろう。わたしがカイムから逃げなくなったのは。離れたら自分から駆け寄って、マントの裾を摘んでは、手を握られて安堵するようになったのは。
吹き荒ぶ灰色の雪の中。ふたり、身を寄せ合って。互いの温もりを頼りに歩いたのは。
どうして、だったのだろう。
* * *
静寂がマナの心中に張り詰めていた。
水面の薄ら氷のようにひび割れるのを予感しながら、何もできないまま。マナは己の中に言葉が響くのを聞いていた。
『カイムとの旅は、辛いものでした。帝国軍が壊した世界を見せつけられて、おまえの罪を忘れるなと罵られ続けた……
そんな顔をしないで、ノウェ。カイムの憎しみは正当で、あれは必要な旅でした。あの日々があるからこそ、わたしは逃げずに己の罪と向き合えているんです』
嘘ではない。だが、実際には。カイムに引きずられ、己の罪を思い知らされる日々は、季節が二巡りした頃から、色を変え始めた。
各地の復興が進み、野犬のような眼でうろつく子どもや、骨と皮だけになった物乞いは数を減らしていった。放置されていた瓦礫が撤去され、市場が並ぶようになり、笑いさざめく人々が増えていった。
いや。カイムがそういった場所を選んでいたから、というのもあるかもしれない。いつからかはわからないが、カイムは、マナが落ち着いて暮らせる土地を探していた。
ドラゴンとの契約で声を失ったカイムは、肉声だけでなく思念でさえ想いを言葉にすることができない。
仕草や視線で、マナへの憎しみは十二分に伝わる。だが、神から読心の力を授かったマナは、その奥に潜む、声にならないカイムの想いを聞き取っていた。
失った故郷への哀惜。自分を置いて死んだ妹への怨み。自分を裏切った親友への怒り。彼らの想いに気づかず、守れなかった罪悪感。怒り。悲しみ。愛。
覚えている。夜、ふと目を覚ますと、カイムが夜空を見上げて目を細めていたこと。
そんなときには必ず、聞こえてくる思念があった。封印の女神──赤き竜からの、睦言。
己の不甲斐なさを責めるカイムを揶揄し、叱咤し、慰める声。冷えた体を互いの肌で暖め合うような時間。第三者が観てはいけないものだと察していたが、マナは目を離せなかった。
マナが見ていることに、カイムが気づいていたかはわからない。互いにそのことを指摘することはないまま、ゆっくりと癒えていく世界と、ドラゴンの愛が、復讐を名目にやり場のない怒りをぶつける戦士に、かつての優しく穏やかな気持ちを取り戻させていった。
覚えている。いつからか、街に入るときは、カイムはマナに目隠しをするようになった。どんなに親切な人も、マナの赤い目を見つけたら、恐怖に顔をこわばらせ、悲鳴を上げたから。
マナはカイムに手を引かれ、聞こえてくる思念を頼りに街を歩いた。代わりに、マナはカイムの代わりに言葉を発した。
親子と間違われることが多かった。全く似ていないのに。こちらを窺う街の人の思念は微笑ましげで。マナはあんなに、カイムに怯えていたのに。
『いいの?』
なぜあのとき、カイムはマナを伴って故国を訪れたのか。妹との絆だったブレスレットをマナに渡したのか。穏やかに微笑んだのか。当時のマナにはわからなかった。
ただ怖かった。だって、許されるはずがないのに。親友を洗脳し、妹を死に追いやり、世界を荒廃させ、カイムと竜を離ればなれにさせたマナが許されるなんて、あるはずないのに。
「許してくれた」
声が。マナを糾弾した。幼いマナが、蹲ったマナを睨んでいる。
神ではない。ボロを纏うあどけない面差しに浮かぶのは、悪意ではなく義憤だった。
「許してくれた。カイムは許してくれた。
世界中の誰も許さない罪、誰よりもカイムが許せないはずの罪を、カイムは許してくれた」
手首ごとブレスレットを握る。これは罪の証。そのはずだった。
贖罪を忘れないために渡されたものだと。そう偽らなければ耐えられなかった。
「なのに、あんたは」
幼い自分の声に耳を塞ぐ。だが逃げられない。愛からは決して逃れられない。
皮肉なことに、壊れた国々の復興が進み、カイムとの時間が穏やかになるほど、マナの罪の意識は増していった。
過去を忘れて新しい日々を過ごしているように見える人々が、失ったものに涙しているのが聞こえた。マナを見るカイムの目が、幼かったころの妹を思い出して細められるのを見た。
彼らからそれを奪ったのは、他ならぬ自分なのだ。許されるなんて、あるわけがない。あってはいけない。何よりマナ自身が、マナを許せない。
だってまだ、セエレが憎い。自分が憎しみを捨てられないのに、許される資格なんてあるわけない。わかっている。だけど。
覚えている。カイムが振り向いてくれるか不安で、わざと足を遅らせたこと。
振り向かれて、怯えて俯いたこと。
手を繋いでくれるか不安で、外套の端を掴んだこと。
手を繋ぎ直されて、嬉しくて、怖くて、泣き出しそうになったこと。
(許さないでください。憎んでください。いや。憎まないで。殺してください。憎むくらいなら殺してください)
喉の奥で、声に出せない懇願が渦巻く。表に出せない葛藤で、少しずつ、マナは憔悴していった。
だって、許されるはずがない。だから、カイムもいなくなる。それが罰だから。
マナが悪い子だから。きっといつか捨てられる。お母さんがマナを捨てたみたいに。カイムもきっとマナを捨てる。
(いやだ)
身勝手な自分を呪いながら、その想いを捨てられなかった。
だから、あの日。
『カイム?』
まだ日も高いのに空を仰いだカイムを、マナは訝しんだ。
理由はすぐにわかった。肉声ではない、引き絞るような絶叫が、蒼い空に響き渡った。
ドラゴンの思念。悲鳴。赤き竜が、カイムに助けを求めている。
カイムが空を仰いでいる。目を細めて、魂の伴侶の叫びに耳を澄ましている。赤き竜に何が起きているのか。どこに行き、何をすべきなのか。すべての意識を赤き竜に集中させている。
その姿は、驚くほど、隙だらけだった。
「カイム」
腕を引っ張ると、カイムは上の空で身を屈めた。
マナが護身用に渡された短剣を取り出したのにも気づかない。マナが腕を振り上げても。カイムは気づかない。カイム。
(こっちを見て)
左眼に突き刺さった短剣を、カイムは唖然と右眼で見た。
それから、マナを見る。呆然と、何が起きたかわからない顔で。反撃もせずに。
その表情に、彼の信頼を裏切ったのを自覚して、マナは背を向けた。
「ごめんなさい」
言い捨てて走る。逃げられる。逃げられる。今ならきっと。
(ごめんなさい)
嫌われた。嫌われた。憎まれたくなかったのに。憎まれて当然のことをしてしまった。
カイムの思念が追いかけてくる。怒り。悲しみ。嘆き。言葉にならない想い。そのすべてに背を向けて、マナは振り向いた。
踵の下は断崖。滝壺の轟音が聞こえる。
「わたしを……」
ささやきはその音に紛れたが、唇を読んでカイムの足が止まった。
それに仄暗い満足を覚えながら、マナは爪先で地面を蹴った。
「見ないで」
一瞬の浮遊感が引き伸ばされ、永遠になる。
背中に迫る滝の音。耳のそばを横切る飛沫。空へと爪先が伸びて、頭が地面へ向かう。
崖を覗き込むカイムの、引き攣った顔。
(愛して、愛して、愛さないで)
わたし、死ぬから。憎まないで。カイム。お願い。わたしを、
「裏切った。あんたはカイムを裏切った。
優しいひとだったのに。本当は、優しいひとだったのに。あんたのせいで。あんたのせい」
「わかっています」
声が掠れた。幼稚な衝動で癒えない傷を負わせ、その罪に自己欺瞞で蓋をして、ずっと忘れていた己の罪深さに吐き気を覚えながら、声を振り絞る。
「わたしは、二度と、決して、カイムに許されない。わかっています。
だからこそ、わたしは。わたしは今度こそ、贖罪を果たさなければならない。
わたしの身勝手で奪ってしまった命に、せめて、贖うために、神、あなたを」
「ホントウに?」
神の声が聞こえた。脈打つ闇が、景色を映し出す。
崖から滝壺へと身を投げた、マナの姿。
「やめて」
覚えている。忘れていない。忘れたかった。思い出したくない。
だから、どうか、それだけは。
一瞬の浮遊感が、永遠になる。
引き伸ばされる時間の中で、マナはカイムとの日々を思い出しながら、最期に一目と、崖上にいるだろうカイムを見ようと瞼を開いた。
果たして。カイムは崖を走っていた。
必死の形相で。契約者としての力が魔剣の力を引き出し、重力を飛び越えてマナに追いつく。
カイムの右手が自分の腕を引っ張るのを、呆然とマナは知覚した。それが何を意味するのか思い至る前に、カイムの腕の中に抱えられる。
力強い抱擁だった。旅に出た当初の、腕を引きずられ歩いた二年間より強く。もう二度と離さないというように強く。世界中のすべてから守ろうとするように、強く。
カイムの温もりに、マナの赤い目から涙が滲む。轟音が迫る。衝撃がふたりを引き裂く。
最後にマナが見たのは、滝壺の岩に背中を打たれたカイムが、懸命にこちらに手を伸ばしている姿だった。
そして水音。永遠のような暗闇。
静寂がマナの心中に張り詰めていた。水面の薄ら氷のように決壊するのを予感しながら、何もできないまま。マナは己の中に言葉が響くのを聞いていた。
「許してくれた。カイムは許してくれた。
決して許されるはずのない罪、贖えるはずのない罪を、カイムは許してくれた」
神が嗤っている。神が歌っている。耳を塞いでも逃げられない。瞼を閉ざしても逃げられない。己の罪からは逃げられない。
「あんたがカイムを裏切らなかったら、カイムは優しい気持ちを失わなかった。
あんたなんかを庇ったせいで、カイムは大怪我を負って、封印騎士団との戦いに全力を出せなかった。
あんたがいなかったら、カイムはきっとセエレを頼ってた。あんたがいなかったら、カイムは万全の状態で戦えていた。あんたがいなかったら。カイムはきっと最愛の伴侶を救い出せていた。
何もかもあんたのせい!」
喝采のような神の言葉に、マナはついに言葉を失った。
神のあどけない手が、マナの耳を塞ぐ。赤い瞳が、マナを覗き込む。
「天使は笑う?」
そして紅。永遠のような暗闇。
「マナ?」
正気を失い、子どものような言動を見せながらもなんとか付いてきてくれていたマナが足を止めたのに、ノウェは不安を覚えて振り返った。
繋いだ手がほどかれる。顔を上げたマナの瞳が、爛々と毒々しく輝いている。
「天使は笑わない。
天使は歌わない。
天使の名を呼んではならない」
聖言を唱えたマナの声は、野太く濁っていた。