遠い嵐、沈む声
「どうして、どうしてぇ?」
泣きじゃくりながら、ハンチはどこかへ逃げようとしていた。体のあちこちが潰れ、血を流している。右足がねじ曲がり、足首から先が地面に擦れている。槍はもう杖の代わりにしかならない。
重い身体を引きずって、惨めに、必死に、ハンチはどこかへ逃げようとしていた。どこか、遠くへ。どこか、遠い昔へ。
昔はよかった。ハンチは呟く。みんなが私を愛してくれた。虚しい独り言。
笑顔を振りまけばみんなが笑ってくれた。お前は可愛いと褒め称えてくれた。それが今は。何をしても顔をしかめられ、何もやっても顔を背けられる。ジスモアも。
ええ、本当は知っていた。利用されているだけだと。それでも私を必要としてくれたのは、あの人だけだったのだ。あの、自分のことしか考えていない、下衆しか。
ああ、どうして。昔は違ったのに。みんなが私を愛してくれたのに。
嵐が。私を、闇に……飲み込んで。
声が。
* * *
『だめよ、ハンチ。危ないわ』
美しい姉が、眉をひそめそう言った。私は聞こえなかったふりをした。
美しい姉。心優しい姉。私のように打算を籠めて微笑む必要もなしに、姉は人々を魅了する。私よりも美しいから。私のように心根が卑しくないから。
私よりも美しい姉が、心配そうに私を見ている。
それ以上顔を見たくなくて、逃げ出した。
強い風。黒い雲。荒れた波。私のようだ。姉の顔を忘れたくて、がむしゃらに舟を漕いだ。
水が、跳ねて。波が。私を、攫って。
声が。
『死にたくないか?』
暗くて、冷たかった。苦しくて。息が、できなくて。
息を。息を。早く。誰か。声が聞こえて。
『何でもするか?』
何でもいいから。何でもするから。お願い。息を。助けて。
笑い声が響いた。
『良かろう』
光が。
* * *
どこに逃げようとしていたのか。ハンチは呆然と足元を見下ろした。
足元で、虫のように足をばたつかせ、陸に揚げられた魚のように喘いでいる、自分の契約者。ケルピー。
竜の炎に灼かれ、牙で胴体を食い千切られ、優美だった身体は見る影もなくみすぼらしくなっていた。
地面に倒れ伏したケルピーが、必死の形相でこちらを見上げた。あの日、溺れていた私のように。
* * *
人外の化生を従えているからだ。そう言い聞かせた。あの日、奇跡的に助かってから、誰も私に近寄らなくなった。唯一人、心優しい姉を除いては。
心配そうに、痛ましげに、怖れを秘めながら私を見る、姉の目。怯える眼差しさえも美しい。
邪険に振り払えば、何と心のねじ曲がった娘かと陰口が聞こえた。化け物と契約を交わし生き長らえた娘。契約を成せるなど、どんな闇を抱えていたのか。賢しげに声を潜める、かつては優しく接してくれた男たち。
憎らしくて逃げ出した。もっと憎らしいのは変わらず美しい姉。一番憎らしいのは醜い私。水の精の力で濡れそぼった身体が煩わしい。惨めで醜い自分が嫌い。私よりも美しい姉が嫌い。私の醜さを際だたせる姉が憎い。
殺してやろうか。そんな声が聞こえた。なんと答えたかは覚えていない。
家に帰れば姉は死んでいた。
そして誰も私に近づかなくなった。
美しかった姉。死に顔さえ美しかった。
優しかった姉。姉のようになりたかった私。
姉を殺した、
(水が跳ねた)
あの日、私からすべてを奪った、
(水の精)
私を溺れさせた、
(ケルピー)
* * *
「お前が」
我知らず、呻いた。
「お前がぁあああ!」
怒号と共に、ハンチは槍を振り下ろした。支えを失った身体が倒れ込み、返り血が頬を濡らす。ケルピーの絶叫が木霊した。
それに合わせて槍を引き抜き、また振り下ろす。何度も何度も。ケルピーが暴れた。構わなかった。槍を突き下ろし、振り回し、ケルピーを切り刻む。
「お前が悪いんだ! お前が! お前さえいなければ、お前ぇっ!」
自分でも何を言っているのかわからないまま、絶叫を上げる。
耳鳴りがした。ケルピーが何かを叫んでいる。やめろ。無様な声。わたしを殺せば、お前も。聞く価値もなかった。
突き下ろした槍は、ケルピーの首筋に穴を開けた。
* * *
「ハンチ?」
美しい姉が、幼いハンチの顔を覗き込んだ。
みんな姉ばかりを構い、私の方を見てくれない。
「姉さんみたいになりたいな」
唇を突き出してそう言えば、姉は「きっとなれるわよ」と笑ってくれた。
優しい姉の笑顔。私だけを見ている。
さっきまで、姉は構ってくる人々に応えるのに手一杯で、私の方を見てくれていなかった。
拗ねた顔を一変させて、ハンチは微笑んだ。
そうすれば、姉が抱きしめてくれると知っていた。
* * *
仰向けに寝転がった体に、光が射しこんだ。空は晴れ、風は凪いでいる。とてもいい天気。なんだか気分がいい。とてもいい気持ち。
辺りは血の海。身体は穴だらけ。そんな無粋なことは忘れて、ハンチは一心に空を見上げていた。とても気分がよかった。それだけで十分だった。
ああ、そうだ。今日は姉さんと出かけよう。小舟に乗って、川を渡ろう。
そんなことを思いながら、ハンチは息を引き取った。