惑う翁と女

「ハンチが死んだ」  牢獄と呼ぶに相応しい空間に、しわがれた声が響いた。灯りはほとんどなく、月明かりを零す窓は手の届かない天井にただ一つ。床には赤い染料で描かれた呪文が血の海のように広がっている。  ヴェルドレはそこで、独り言と変わらぬ言葉を投げかけていた。 「これで二つの鍵が壊れ、残る鍵は三つ……実質は二つ、否、一つか。  残る聖宝玉が失われれば、すべての鍵が壊されるのは時間の問題。それだけは避けねばならぬ」  重々しい言葉を遮るように、軽やかな笑い声が響いている。それはヴェルドレの声を止めるには至らず、苦悩を和らげるにも至らなかった。 「奴らの首に賞金をかけたが、気休めにしかならん。契約者さえ屠った魔道士と竜騎士、おまけに蒼竜まで敵に回そうとする者がどこにいる?  奴らと互角に渡り合えるのは契約者のみ。だが守護者を直轄区から離すわけにはいかぬ。ジスモアが動いては騎士団の統制が取れなくなる。  私はもう老いた。レオナールは姿を消した。セエレは……」  苦悩が目を閉ざさせた。  目蓋に浮かんだ子どもの……いや、もう青年と呼ぶに相応しい、凛々しい表情が、胸に突き刺さる。蔑んだ眼差しでこちらを睨む、セエレの顔。 「セエレは決して私の味方はせんだろう。彼奴はカイムを慕っておったからな。カイムを裏切った私を赦しはすまい。  それに、マナは……」  悪寒が身を震わせた。あの赤い目。十八年前と何ら変わらぬおぞましさ。セエレと同じ蔑んだ眼差しで自分を糾弾した、諸悪の根源。  唇を噛み、それに耐えた。  裏切りを重ね、大罪を犯そうとも、世界は守らねばならぬ。そうとも。私は、為すべきことをしたのだ。世界に、永遠の平穏を。女神のいない世界を。そのためならば、何でもしよう。  ヴェルドレは目の前で笑う女の手を握りしめた。  白い、ほっそりとした手のひら。その手に秘められた力を知っている。その強大さ、禍々しさを。  それでも握りしめた。女は気にした様子もなく笑い声を立てている。ヴェルドレも言葉を続けた。 「お前しかいない。今動ける契約者はお前しかいない。  だから、お前を解き放つ。契約者の中でもお前の力は群を抜いている。或いは奴らを討つことも可能かもしれん。  だが」  笑い声を立てる、その顔を見つめた。十八年前と変わらぬ美貌。髪だけが長く伸びた。美しい女。一目でわかる。狂った女。  それしか縋るものがなくて、ヴェルドレは声を絞り出した。独り言と変わらないと、知っていても。 「帰ってこい。私にはもう、お前しかおらんのだ。  だから、必ず無事で帰ってくるのだぞ。アリオーシュ」  女は微笑んだ。その目は何も映していなかった。 「私の、赤ちゃん」