お伽噺との決別

「全部忘れられるよ」と老婆は語った。  手に取った忘却の林檎に映る自分の顔は、青ざめて強ばっていた。思い出すのは目蓋に焼き付いた彼の姿。  愛しい、腹立たしい、優しい、誰よりも恋しい彼が、別の女性と踊っている姿。  すべて忘れられると、老婆は語った。 「これを食べれば、全部忘れられるよ」 「ここに来てからの生活、出会った人すべて」 「残るのは甘い夢だけ」 「さあ、早く」 「十二時の鐘が鳴るまでに食べなければ、魔法は解けてしまう」  急かす老婆の言葉を聞きながら、ここに来てからの思い出に目を奪われる。  どうして、こんなことになったのか。  待ち焦がれていた王子と出逢い、幸せになるはずだった。結婚式の朝、井戸に落ちて、この世界に来た。  そのことを怨む気持ちはもうない。どしゃぶりの雨の中で出逢った、親切な人。生まれて初めての気持ち。  自分以外の女性と踊る彼の姿。ナンシーは素敵な人なのに。私にはエドワードがいるのに。私は。 (この林檎を食べれば、全部、忘れられる?)  唇を近づける。艶やかな紅い林檎。目蓋を閉じて、最後に浮かんだのは、泣きじゃくる少女の顔。  モーガン。愛らしい彼の娘。私の物語を喜んでくれた。別れるとき、泣いてくれて。  約束した。私は。あの子と。 (アンダルシアに帰っても、モーガンのこと、忘れないわ)  目が覚めた。放り捨てた林檎が、階段を転げ落ちていく。  老婆が叫んでいる。 「何てことを。十二時の鐘が鳴れば、魔法はもう」 「忘れないわ」  十二時の鐘が鳴る。  こぼれる涙と共に、ジゼルは告げた。彼に愛される日が、永遠に来ないのだとしても。 「この悲しみを抱いて生きていく!」