Rainy after Happy-Ending

Opening

 どこかの暗闇。無機質なコンクリートの続く、どこかの通路。  黒い少女が色褪せたぼろぼろの絵本を開く。 (むかしむかし、ずっとむかし。人は神さまの愛に包まれて生きていました。  みんながみんな仲良しで、笑い合い助け合い、幸せに暮らしていました)  暗闇の中、明かりもなく、少女は絵本に描かれた笑顔を眺めている。  あどけない面差しは醒めて冷たく、深い黒髪が少女の白い肌を闇に溶かしている。袖のないワンピース、爪先を包む小さな靴も、色濃く黒い。  少女は絵本を手繰り、ページをめくった。何の表情もそこには見えない。 (世界いっぱいに愛が満ちたとき、神様は満ち足りて、うとうとお昼寝をしてしまいました。  そして、目覚めたとき) 『どうしたの? カヤ。絵本なんか読んで』  透き通る声に、少女は顔を上げた。  闇の中で煌々と白い、だが周囲を照らすことはない霧のような光が、少女の頭上に降りてくる。 「セイ」  ぽつり、と、少女は光の名を呼んだ。  光は滑らかに形を変え、男の姿を象った。  宙に浮かぶ、白く透ける男。くたびれたシャツ、擦り切れたズボン、無造作に伸びた淡い金髪、若々しい肌に浮かぶ平凡な笑みの向こうに、灰色の天井が見える。 『大丈夫だよ、カヤ。僕がついてる』  張り詰めた黒い眼差しに目を細め、男は少女に告げた。 『きっと、神様に会えるよ』  まばたきを一つ。少女は絵本を閉じた。  ぼろぼろに朽ちたそれを置き去りに、くちびるを噛みしめ、走り出す。  暗闇に見えるのは、少女の背中だけ。  見送る男の足下で、絵本のページが、ひとりでに、そっとめくれた。 (世界には、憎しみが満ちていたのです)

Rainy after Happy-Ending 1st-Episode "Heart Break"

◇  ◇  ◇
 追いかけてくる荒い息と汚い手。頬を叩く冷たい空気。瓦礫の続くひび割れた道路。暗い世界。  視界を横切るそれらを見捨て、少女はガラスの上を駆け抜ける。伸びた髪が頬に張りつき汗が伝う。枯れ枝のような腕が左右に振れて、黒々と闇を映す目に“立ち入り禁止”の文字が映った。  もう少し、もう少し、あと少しで“聖域”だ。積み上げられた瓦礫を飛び越えて、ぼろぼろの金網をくぐり抜ける。  もうだいじょうぶ。男たちはここから先は追って来ない。そんな度胸は彼らにない。  落ちていたハードルを踏みつけて、少女はすぐに駆け去った。 「おい、どこに行った!?」 「こっちだ、早く!」 「クソ、“聖域”に逃げやがった!」 「もったいねえ。死んだぞ、あのガキ」  金網の前で立ち止まり、成す術もなく、男たちは遠ざかる少女の背中を睨みつけた。  少女がこっそり戻って来ないか待ち構えたが、すぐにあきらめた。歯ぎしりをして地団駄を踏む。 「あー、畜生! 久々に男以外の穴に突っ込めると思ったのによぉ」 「馬鹿。ンなことしたら不味くなるだろ」 「肉、食いたかったなあ」  息を整えながら口々に悔しがり、足早に去っていく。  荒れ果てた街。壁や地面に飛び散り乾いた血。もう誰も気にしない。文明も倫理も死に亡び、人々が唯一禁じているのは“聖域”に入ることだけ。  そこは人々がありあわせの物で標した境界線。「立ち入り禁止」の文字が告げる、人の世の終わり。  越えてはならないそれを侵してしまった少女の末路を思い、男たちは足早に立ち去った。 「畜生……」  その中の一人が、最後に一度だけ、忌々しげに振り返る。 「神なんて、ずっと寝てりゃよかったんだ」  聖域には神がいる。背を向けて、足早に立ち去った。
◇  ◇  ◇
 暗闇の中を少女は歩く。聖域に入ったからといって、辺りの景色が一変することはない。周囲には変わらず壊れた街並みが続き、荒れ果てた道路には誰かの流した血の跡がついている。  その一角に、テレビが置かれていた。かつてこの辺りは商店街だったのだろう。今はもう暗闇が続くだけの画面を、少女はじっと眺めている。  闇の中の自分の姿が歪み、今は遠い日々が目蓋に映る。   ◆  ◆  ◆ (大丈夫よ、カヤ。きっと神様が助けてくださるわ)  薄暗い部屋で、少女はその言葉を繰り返した。  そう言って抱きしめてくれた母は、天井で首を吊っている。食料を探しに行くと言った父は、いつまで経っても帰ってこない。  外に出なければ助けはない。わかっているのに、窓から聞こえる銃声と爆音が足を竦ませる。 (大丈夫よ、カヤ。きっと神様が助けてくださるわ)  もう一度繰り返す。その声は震えていた。窓の外には殺し合う人々。銃声と爆音。それが、不意に止んだ。  奇跡のような静寂に、少女は扉を開けてそれを見た。  光が射す。煤けた街に、羽根が落ちてくる。母の言葉を胸に、少女は空を仰いだ。  灰色の雲から、天使が降りてくる。  そして、透明な男が。   ◇  ◇  ◇ 『カヤ』  空から響く水滴のような声が、追憶を閉ざした。  男が宙に浮かんでいる。透明な笑顔に透明な身体。男の笑みを透かして灰色の雲が見える。  首を天に反らし、少女は不満げに唇を尖らせた。 「セイ、まだ? あたし早く神さまに会いたい」 『大丈夫だよ、カヤ。ほら』  あやすような仕草で、セイは空を指差した。  灰色の曇り空に、奇怪なシルエットが見える。それがどんどん近づいてくる。落ちてくる。  頭だけが大きい痩せ細った体。金属の光沢を帯びた無毛の肌。耳も目も鼻もなく、頬まで裂けた口だけが笑みを形作っている。唇のない口から覗く牙は不気味に鋭く、手のひらと区別のつかない指はそれ以上に長く鋭い。  怪物の痩せた背中に、邪魔としか思えない──そこだけ抜き出せば美しい──白い両翼が生えていた。  鈍色の肌をした神の使い。 『天使の迎えだ』   ◆  ◆  ◆  かつて人間を公平に幸福に管理していた“神”は、役目を終えて眠りについた。  だが、神のいなくなった世界で人間たちは憎み合い殺し合うようになり、神の復活を望む声が世界に満ちた。  祈りは届き、紛争地帯となった聖地で神は目覚め、そして……   ◇  ◇  ◇  音もなく静かに、天使は道路に舞い降りた。  平屋程度なら容易に屋根を見下ろせる巨体に、はしゃぐ小さな体が駆け寄る。 「神さま……!」  歓喜して、少女は手を伸ばした。見下ろした天使が、手を差し伸べてくる。  鋭い指が少女の薄い腹を貫き、臓腑をかき混ぜた。  少女の唇から、赤黒い血の塊がこぼれる。黒い大きな瞳が、縋るように空を見上げる。  白く透ける男が、雲を背に優しく微笑んだ。 『目覚めた神は、憎しみを消そうとしたんだ』  新たな血溜まりに、小さな体が放り捨てられる。 『人が滅べば、憎しみもなくなると思ったんだよ』  そう言い残すと、セイの姿は蝋燭のように吹き消えた。天使は羽ばたいて、空へと去っていく。  後に残されたのは、少女の亡骸だけ。  荒れ果てた道に、天使はもういない。誰も少女を見ていない。彼女も誰も見ていない。闇さえその目に映らない。  それに安心したのか、少女の骸がそっと崩れ、砂になり、風に舞って姿を消した。
◇  ◇  ◇
『天使がダミーに引っかかった。これでしばらくは大丈夫。  出番だよ、カヤ』  商店街の地下、廃墟の奥深く、灰色の暗がり。薄闇の中で煌々と白い光が、少女の頭上で男の姿を形作る。  カヤは無言でセイを見上げた。セイは笑顔のまま首を傾げる。瞬きの間、しばし見つめ合う。  無言のまま顔を逸らし、カヤは走り出した。  通路に備え付けられた螺旋階段を、躊躇なく駆け下りる。より暗い闇の底を目指して、深く深く。  暗闇の奥に、強ばった横顔と、黒い背中が溶けていく。  それを見送って、セイは首を上に反らした。  上へ上へ。地面の底を抜けて、ビルの壁を抜けて、厚い雲を越えて、空の上に辿り着く。  灰色の雲の上、一面の青空に、天使たちが羽ばたいている。  セイは笑んで、指揮者のように腕を振り下ろした。  吹き荒ぶ風が研ぎ澄まされ、空間を引っ掻く耳障りな光が炸裂する。  天使の翼が剥がれ落ちて、次々と雲の下に落ちていく。いい気味だと優しく笑った。 『ナニをしテイる』  残った最後の一匹が、ノイズ混じりの雑音を立てる。セイは笑みを細めて見下した。 『あんたと同じ殺戮。見てわからないのか?』 『てンしハたンマツにスぎヌ。そレにおナジでハなイ。  わタシは人ノ苦しミヲ終わらせ、愛に満ちた世界を取り戻しているのです』  雑音が遠退き、玲瓏とした声が姿を現す。  ぬめらかな白い肌。そっと伏せられた瞳。優美な鼻に、慎ましやかな唇。不気味なほど整った美貌。  それは最早、御使いではなかった。美しさよりも不気味さが際立つ姿を、セイは透明な笑顔で嗤った。 『わざわざ天使ガードロボット降臨ダウンロードしてまで言うことが、それか?  見栄にしても説得力がないな』 『私の言葉は真実。  愛を忘れた人に、死の安らぎを。そうしていつか、再び世界を愛で満たす。  それが私の使命』 『欺瞞だな』  澄んだ声が、毒々しく空気を引き裂く。 『お前は単に死にたくないだけだ』
◇  ◇  ◇
 暗闇を降りていく。降りる、落ちる、堕ちる。  闇の奥に、瞬く光がある。それを目指し、闇の奥底へと、カヤは堕ちていく。  意識が、遠い過去へ、落ちていく。   ◆  ◆  ◆ 『助けてあげようか?』  雨が降っていた。  骸の山。血塗れで倒れ伏している自分。バラバラになって、動かない天使。  雨音と、誰かの声だけが耳に触れる。目の前に浮かぶ、透明な男。  雨は男を通り過ぎカヤに落ちる。男の体を透かして、雨雲が見える。 (ゆうれい?)  男が笑った。 『神が憎い?』  瞬間。  母の笑顔。きっと神様が助けてくださるわ。絵本のページ。人は神さまの愛に包まれて生きていました。殺し合う人々。死体の山。帰ってこない父。嗤う天使。  母の膝で、神を信じ笑った記憶。  全身全霊の憎悪で空を見上げたカヤに、男は蕩けるような笑みを浮かべた。   ◇  ◇  ◇  空の上。セイは嘲り笑う。 『神は人の感情に寄り添うよう設計されている。  愛は神を肥やす餌。憎しみは神を殺す毒。  だから』   ◆  ◆  ◆ 『触れるだけでいい』  どこかの空の下。  不安げなカヤを励ますように微笑み、セイは雲霞の如き天使の軍勢を見据えた。 『僕が君を守る。その間に』  促され、カヤはセイによって間近まで引きずり降ろされた、白い光を見上げた。  柔らかに白い、泡のような光。無垢で清らかな、混じり気のない、神々しい輝き。  畏れるように、カヤはにじり寄った。唇には汗ばむ笑み。剥き出しの細腕が興奮に粟立ち、幼い瞳を憎悪が塗りつぶす。  爪先立ちになり、カヤは光に手を伸ばした。   ◇  ◇  ◇ 『殺されるのが怖かったんだろ?』  セイが爪弾いた風が、神の片翼を切り落とした。 『神の行動は徹頭徹尾自己保身だ。  かつてはエサ欲しさに人間を救い、今は憎しみ怖さに人間を殺し回っている。  素直に白状しろよ。死にたくないから殺します、ってな』 『醜い邪推ですね』  眉一つ動かさず、神は切られた翼を再生した。  修復はそこで終わらなかった。飛び散った羽根から腕が生え、首が生え、胴が足が翼が生え、一つ一つが新たな神となる。 『失せなさい。いくら天使を砕こうと無駄なこと。  例え千々に引き裂いても、貴方に私は殺せない』  幾百の神に囲まれて、セイは陽気に肯いた。 『そうだね。俺には君を殺せない』   ◆  ◆  ◆ 『神はまだいるよ』  戦いの後。光も天使も消え失せた戦場で、カヤはきょとんと首を傾げた。 『神は怖がると分裂する。そうやって世界中に散らばって、人間を殺しているんだ』 「じゃあ、もっと神さまを殺せるのっ?」  勢い込んだカヤの弾んだ声に、セイは一瞬目を見開き、そして、満面の笑顔になった。 『うん。いっしょに神を皆殺しにしよう』  楽しそうにセイが笑う。嬉しそうにカヤが笑う。どこかの空の下、ふたりは屈託なく笑い合う。  燦々とした陽射しが、ふたりの行く先を照らしていた。   ◇  ◇  ◇ 『俺にはね』  セイの言葉に、神は素早く地上を探知した。  一瞬のノイズ。平坦な美貌が驚愕に彩られる。 『まさか、あの人間まだ生きて──!?』 『遅いんだよ。そんだけ頭が悪けりゃ自己分析なんて夢のまた夢だな。  ま、いいからさっさと』   ◇  ◇  ◇  階段が終わった。汗ばんだ額に黒髪が貼りつく。  無垢な泡めいた白光が、階段の下でふよふよと浮いている。  荒い息を整えながら、夢見るような笑顔を浮かべ、カヤはその光に、指先で触れた。   ◇  ◇  ◇ 『「死ね」』
◇  ◇  ◇
 光が爆ぜた。炎を水に触れさせたような音が轟く。貼りつけたように同じ断末魔を上げて、神の分身たちが墜ちていく。  達成感に笑んだカヤの首を、壁から生えた腕がつかんだ。 『き、サマ。何ヲしテイる』  見る影もなく爛れた天使が、カヤの首を絞める。なんとか復元しようと肌がざわめいた、その腕が爆ぜた。 『汚い手で触るなよ』  天井から舞い降りたセイが、天使を両断する。  咳き込むカヤが、怪訝そうに神の操り人形を見た。 『カヤ カヤ、こん中』  真っ二つに割れた天使の中身は、輝く光だった。きらきらと光る、丸い、神の本体。  カヤが笑んだ。 『やめろ!』  神が叫ぶ。カヤが聞くはずがなかった。怯えた眼がセイに訴える。 『貴様、何をしているかわかっているのか!? 私は人間どもを救おうとしているのだぞっ。  あの美しい世界、平和と幸福に溢れ、何の悲劇も憎しみもない、愛に満ちた世界を取り戻したくないのか!!!』 『つまんないよ、あんな世界』  微動だにしないセイの笑顔に、神は絶句した。カヤが近づいてくる。動けない。殺される。  氷よりも冷たく煮えるカヤの眼差しに、神はすすり泣いた。 『何故だ、何故……私が憎いなら、何故』  神はセイを指差した。 『何故、そいつを殺さないんだ!!』  カヤが神に触れる。触れた先から、光が失われる。内から、何かが。 (死にたくない)  最後の声は自分にすら届かず、闇に消えた。
◇  ◇  ◇

Epilogue

 外は晴れていた。陽射しが荒れ果てた聖域をまざまざと照らすのに目を細めて、カヤはビルの廃墟から道路へ爪先を下ろした。  その傍らに、セイが降りてくる。いつもの笑顔で、手を差し伸べてくる。 『カヤ。僕も殺してみる?』  透明な手のひらを、カヤはじっと見つめた。   ◆  ◆  ◆ 「セイ」  不安げなカヤの声に、セイはふり向いた。優しく微笑む。  カヤはセイを見上げた。透明な笑顔。透き通る体。ほのかに光る──  自分の手で握りつぶした光を、思い出す。 「セイは……神さまなの?」 『そうだよ?』  口にするのを怖れていた問いは、あっさりと肯定された。  不安と、期待と、それを超える信頼が、カヤに笑顔を咲かせた。  次なる答えを期待して、声を弾ませ問いかける。 「じゃあ、セイは、人を助けるために戦ってるの!?」 『そうだよ?』  ほしかった言葉は、すぐに裏切られた。 『人がいなくなったらつまんないじゃない。もっと殺し合ってくれなきゃ』  カヤの笑みが凍りついた。その表情を見て、セイが顔をほころばせる。 『君の憎しみが大好きだよ、カヤ。とっても綺麗で……  だから、君を助けてあげる。  だから、もっと苦しんで?』   ◇  ◇  ◇ 「いつかきっと」  カヤはセイを見上げた。その透明な笑顔を。 「一番最後に殺してやるわ」  セイは、蕩けたように幸福な笑みを浮かべた。 『楽しみにしてるよ』   ◇  ◇  ◇  どこかの雲の下。絵本のページがひとりでに、そっとめくれた。  最後のページには、少女の笑顔。  その頬に一滴、涙が落ちた。 (ハッピーエンドの後、雨が降るでしょう)