おしゃべりな杞憂

 うるさい奴だ。それが第一印象だった。 「あのね、今日ね、晴れててね、空がきれいだったの! 青くてね、雲がね、こう、綿菓子みたいに、ふわふわで、でも向こうに空が透けて見えて、雲母みたい、って思ったの! あ、雲母ってわかる? あのね、」  占い師のくせに、どうでもいいことをいつまでも喋り続ける。今日の天気はどうだったとか、道端の花が綺麗だったとか、どこそこのクッキーが美味しかっただとか、そんなどうでもいいことばかり。これが世界屈指の夢見姫だとはどうしても信じられず、信じられないからといって事実が変わるわけもなく、護衛を引き受けてしまった現実が消えるわけでもない。忌々しく、それでも邪険にするわけにもいかず、適当に聞き流して相槌を打っていた。  *  *  *  誰がそれを悔やむ破目になると思うだろう?  *  *  * 「空が落ちるわ」  浮かべた眼差しは、正気を宿していなかった。目の前を見ず、未来だけを見て、その光景に打ちのめされている。 「空が落ちる。紅く染まって、血に染まる。墜ちるの。とてもきれいよ。赤いの。とても赤い……夕空が……血に染まって……骨が……赤い……潰れて……」  疲れたのだろう、それとも絶望したのか。娘は眠りに落ちた。夢の中でもあの光景は続くのか。安らかな暗闇が目蓋の裏に広がることを、彼女のために祈った。 『お嬢様は十六歳になると、気が狂う運命にあります』  あの爺はそう言った。無表情で、涙をこらえていたのかも知れないが、どうでもよかった。 『それが夢見姫の血筋の宿命なのです。占いの力は年を経ると共に増大し、やがては見る気がなくとも勝手に流れてくる未来の光景に、精神が耐え切れなくなってしまう。だから、その前に、気が狂い、体が衰える直前の、十五歳に、男に犯させて、次の子を』 『うるさい』  そう遮ったのは、自分だ。そう叫んだ。 『お願いです。お嬢様は貴方様を好いておられます。ですから、どうか。あの男がお嬢様を召抱えに来る前に』 『うるさい! 俺はあいつを守る! お前らがそう依頼した! 俺はそれを受けた! だから俺はあいつを守る! どこぞの助平男があいつを犯しに来るっていうならぶちのめしてやる! だから』  手を握りしめた。微かに身じろいで、彼女が目を覚ます。 「ん……」  開いた目蓋に、俺は映っているだろうか。涙を堪えているのが、ばれはしないだろうか。小さな手をそっと握りしめて、呟く。 「死ぬなんて、言うなよ」  *  *  * 「空が落ちるわ空が落ちる墜ちて割れるのみんな死ぬ潰れてぐしゃりと折れて死んで空が」  背中で彼女がわめいている。俺は黙って聞いている。彼女はもう正気を宿していない。狂っている。彼女は孕んでいない。処女のままだ。この呪われた血筋は、彼女の代で絶える。それをこいつが望んでいたと、俺は知っていた。 「落ちる墜ちる堕ちる堕ちるのみんなが堕ちる堕ちる死ぬ殺されるぅ!」  耳障りな笑い声をたてて、ケタケタと空を見上げる。こいつは空が好きだった。自分は空が好きだと伝えようとしていた。花が好きだといつも言っていた。あの口やかましいばばあの作るクッキーが好きだと、陽だまりで昼寝をするのが好きだと、俺といっしょにいると嬉しいと、そんなたくさんのことを、伝えようとしていた。正気の内に。  覚えていてもらいたかったのだ。自分が好きなものを、自分が好きだったものを、自分は覚えていられないから、自分には時間が残されていないから、だから、あんなに。 「落ちる堕ちる墜ちる落ちて、砕けて、壊れて、割れて、そして、尽きる」  涙がこぼれた。ぬぐって、くちづける。自分に許されたのは、これだけだ。 「あのね、空が落ちるの。落ちてね、みんな死んじゃうの。あのね、空が」 「落ちないよ」  目を合わせ、逸らさずに、嘘をつく。 「空は落ちない」 「落ちないの?」  誓う。 「ああ」  視線を交えたまま、昔のように、彼女は笑った。 「そっかぁ」  何度も肯いて、甘えるように頭を俺の頬にすりつけた。何度も何度も繰り返して、やがて眠った。  そのまま息絶えた。  *  *  *  墓に彼女の好きだった花を植えて、苦労して編んだ花冠を載せると、他にしてやれることは何もなくなった。 「……」  最後に抱きしめてやりたかった。もっと上手い言葉をかけてやりたかった。安心させてやりたかった。あんな下手糞な嘘じゃなしに、もっと、何か、もっと、上手な。  頬をぬぐうと、立ち上がった。そのまま背を向ける。あれが最後だなんて認めたくなくても、事実は変わらない。最後に告げた嘘が変わるわけもない。世界屈指の夢見姫が世界の終わりを予言した、その事実も変わらない。けれど、俺にはまだ、こいつにしてやれることがあるはずだ。  足を向ける。どこに行こう? 立ち止まらずに行こう。決してあきらめない。最後に笑った、あの笑顔を本物にしてやりたい。それだけでいい。あの笑顔が自分への報酬だ。他には何も要らない。  未来を変える。あの嘘をほんとにする。 (――…。空は落ちない)  俺が落とさせないんだ。